平成14年8月18日

UJI 花散歩 壱拾壱

 



宝蔵神社盂蘭盆供養大祭―蓮の花の咲くとき

 第47回宝蔵神社盂蘭盆供養大祭は、谷口清超先生、谷口雅宣先生、谷口恵美子先生、谷口純子先生のお出ましを賜り、荘厳に、厳粛に、そして大盛会のうちに終了しました。この大祭であちらこちらに飾られていた花が「蓮の花」です。蓮の花は、早朝、日の出とともに蕾を開いていくといいます。開花のときに「ポン」と音がすると言われていますが、一度聞いてみたいものです。花を咲かせるのは、7月・8月の間だといいます。蓮の花のいのちは4日です。2日目が最も綺麗とのことです。蓮は泥沼に咲きますが、決して花は汚れることはありません。蓮は古くから中国より日本に渡来したと考えられています。地下茎は食用となる蓮根。蓮の名は、果実が入っている花床が蜂の巣のように穴が開いていることから、昔は蜂巣(はちす)といい、それが蓮(はす)に転訛したと言われています。仏教絵画に蓮の花は欠かせませんが、ヨーロッパにおいてもギリシャ神話が神秘の魔法を放つ花として蓮の花を取り上げています。
 大聖師谷口雅春先生は、「生長の家の神観の把握」との御講義の中で「實相世界の姿はどんな相か」と次のように示されています。 《釋尊(しゃくそん)が示されたこの、金波羅華(こんぱらげ)の姿が、宇宙の實相のスガタであります。“波羅”というのは、サンスクリット語で“彼岸”という意味です。“彼岸”とは“實相の世界”のことをいいます。“現象の世界”を「こちらの岸」すなわち“此岸”といいます。仏教の語です。
 菩薩というのは「おのれ未だ渡らざる先に、他の人を渡してあげる」のが菩薩であるといわれている。渡してあげるというのは、現象の此方の岸から彼方の岸――“實相の彼岸”に渡してあげるという意味であります。菩薩というのは、自分は彼岸に安住したい欲望すらも棄てて、他の人に真理をつたえるために現象世界の醜い泥にまみれながら奔走する――それが菩薩の行であるといわれている。
 それではその彼岸實相の世界とはいかなるものかというと、金色の蓮華の花によって象徴的に示されている相がちゃんとそこにある世界です。現象の朝顔の花の奥に、朝顔の花の理念の相が既にあるのと同じように、現象の桜の木の奥に、理念の桜の花の相がすでにあるのと同じように、宇宙の實相はどういう相の世界であるかというと、金波羅華即ち蓮華(はちす)の形で、まんなかに「巣」(統)があって、それから萬物が生じ、萬物がその中心に帰一している姿である。日本の花にたとえたら、菊の花にあたるわけです。印度(インド)では、菊は、あまり暑いので育たないので、お釋迦様は菊花を示すことができないので、蓮華を示された。若し釋尊が日本に居られたら、きっと菊を示されたと思うのであります。
 釋尊が蓮の花を示された理由は、宇宙の實相は、まん中に「巣」(統べる・総べて・澄む・透きとおる、などのス)があって、それに中心歸一しているからであります。これは『聖なる理想・国家・国民』という私の著書に図解が示されているいたはずでありますけれども。蓮の花はまん中に「蜂の巣」のような形の実る子房があるでしょう。だから「ハチス」というのです。その花の中心がある。 「巣」というのは、一切の生命がそこでうまれ、そこに集まって中心に帰一して安住する所なのです。巣をを失ったら一切の生物は安住の場を失う。今、世界は永遠に変わらざる安定の中心たる巣(統・皇・ス)を見失っているから安定なく常に動揺しているのです。皆さんの家も、「愛の巣」である。愛の巣に夫婦ができて、子供が生れ、その子供は思い思いに、方々に別れてゆくけれども、その本源は巣であります。
 すべてのものが一つに融合統一されてスーッと澄み切ると、そこは偏りがなくなり姿形のない透明になる。
 すべてが一つになる所、それが巣である。そこには太陽の無色の光のように、偏りがなく、無我である。無我であるから、依怙贔屓(えこひいき)がないから、すべてがそれに信頼し帰一する。》(『實相と現象』より)










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