『 宇治だより 』  宇治を愛する人  

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『宇治だより』 第21号  昭和61年5月20日 

  宇治練成の思い出

   旭川教区教化部長 (当時)  野口 修
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 あれは、昭和三十二年二月飛田給から引きつづいて楠本先生のお伴をして、
初めての練成をうけた。

 父母の強いすすめで、結核療養中の病院から脱け出しての参加だった。
北海道生まれの私でも二月の宇治の寒さは体に応えた。
身の切られるような水で顔を洗い、日中は山崩し土運びの献労、夜は講話であった。

 楠本先生の痩せた体のどこから出てくる力か、作業休め!の号令が掛かるまで、
ありがとうございますの掛声と、ツルハシの上下運動は止らなかった。

 私も頑張ったが、夜帰る時は手足の関節バラバラ、明日は一体どうなることやら、
あとはドーナトキャーナロタイと寝てしまう。

 ところがカッコーワルツと共に飛び起きてみると、夕べは中古以下だったはずの
体がピンシャンとして新品同様ナントモナイ!成程、神様に生かされている
と実感する。

 私の班の女子高生。献労最中にスコップを投げ出し、立ったままで泣き出した。
お母さん、ありがとうございます!お母さんありがとうございます!
と手放しで泣く彼女をみて、私も貰い泣き。しかしまだ両親に感謝できぬ自分を
もどかしく、彼女をいいなあと羨ましく思った。

 飛田給から宇治へと私同様つづけて練成をうけた人に体の不自由な初老の
婦人があり、若い私が手を貸したり背中をさすったりした。

 たまたま介護の役を私が引き受けただけなのに、どう誤解されたか、
夜の体験発表の時間にある人が、大変親孝行の息子さんの姿をみて教えられた
とのこと。どうもそれが私らしいと気付き、慌ててうつむく。

 その頃の私は、母の肩を一つも叩いたことのない息子であったから、
穴があったら入りたい恥ずかしさであった。

 練成が終わっても皆が帰っても私は帰る気になれない。
俺もいつか、こんな道場で奉仕できる様な人生を送りたいと夕陽の沈む宇治の山を
後髪引かれる思いで下りていった。

 今、宝蔵神社石垣の近くの道端に、両親の名が刻まれた玉垣が立っている。
宇治を訪れる毎にその前にひざまづき、父さん母さん、又来たよと合掌する私である。宇治は私にとって魂のめざめた懐かしいふるさとである。

 

 

 

 

 


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