『宇治だより』 第24号 昭和62年1月1日
思い出の宇治別格本山
法貴雪子
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昭和三十五年八月、私は宇治の宝蔵神社落慶式につづいて行なわれた聖師谷口雅春先生の御講習会に参加した。
実はこの落慶式に出たいので、夫に頼んで二人の幼い子供を海水浴に連れて行って貰い、東京都の団体参拝旅行に加わったのである。
また、私はその出発の前に、宝蔵神社建立の献資を一万円させていただいたので、是非、御まいりがしたかった。
ところが、宇治に来て、私は本当に驚いた。こんなに壮大な神社が建つとは、夢にも思っていなかった。あの一万円は、どこの隅に使われたかと思うと冷汗の流れる思いであった。
更に驚いたことは、参道の玉垣に二本に、私の名前がちゃんと刻まれていたのである。
私は全く恐縮し、これは大変なことになったと思い、それからつづけて八本の玉垣を献納させていただいた。しかし功徳は玉垣十本分どころではなかった。
落慶式がすんで間もなく、私の夫は長年の公務員生活から会社勤めとなり、兵庫県西宮に移住し、素的な社宅に住むようになった。庭が百五十坪、家は新しく広々としていて、まさに天国であった。
その頃、霊宮聖使命会ができ、私はただちに十柱入会した。そのなかに私の祖父で英語の非常に上手であった人がいたが、私の息子は急に英語の成績がよくなり、学校はじまって以来とまで言われたのである。
また、このころ永代供養も始まった。私は六才のとき失った母を永代供養したところ、その月から突然私の体重が増えはじめ、五キロ増えて四十七キロとなったその後、目方はふえもへりもせず、今も健康な毎日を送っている。
幼い私を残して、難産でこの世を去った母の執着が、永代供養によって、とれたのであろうか。
あれから二十年― 私の捧げた玉垣も、今は苔むして、名前もさだかでないが、私はその前を通るたびに、「汝、ためらうことなかれ」と、誰かがささやいているような気がしてならない。