『 宇治だより 』  宇治を愛する人  

- 29-

『宇治だより』 第31号  昭和63年12月1日 

  懐しき宇治の想い出

    函館教区 教化部長 (当時) 中島清次


------------------------------------------------------------------------
初めて宇治の地を踏んだのは、昭和三十一年七月の暑い頃であった。
この月の十日迄飛田給の練成を受け引続き宇治に向ったのは、
同室であった一号室の六名が意気投合して同行することになり、
宇治へ行ってからもこのまま同じ班になって
同一行動を取るべく約束をしたのである。

その頃の参道はまだ細い急な坂道で、
流れる汗を拭きながら何回休んだ事か!
やっと登り詰めて視界が開けたから、「ああ、これでひと安心」
と思ったのも束の間、見渡すと道場はまだ彼方にあるのである。
それ程、当時の道場への道程は「遠いなあー」と感じたものである。

到着したのは夕方遅くであった為、受付は明朝と云う事になった。
翌朝早めに「同班になるべき交渉に行こう」
と云う事で一行が廊下に出た途端、
丁度そこに居られたのが楠本先生であった。
「先生!昨晩飛田給より六名参りました。
この六名を此処でも同じ班にして頂きたいのですが」とお願いしますと、
先生はニッコリ笑って「ここはみんなが一つの部屋だよ」
と言はれたのである。

よくよく考えてみると、ここで部屋とは講堂一つしか無く、
ここが講義を聴く場であり又食事の時には食堂となり夜は又、
中央にカーテンを巡らして男女別々の寝室に早変わりするのである。

その頃、現在の大拝殿前の広場の半分位はまだ小高い山であった。
この山をツルハシとスコップで崩し、
それをモッコで運んで沼地を埋めたてて平地にする献労が主であった。
この献労は、雨の日以外は毎日午前十時より午後四時まで続けられた。

献労の先頭にたって御指導されておられたのは、
現理事長の吉田武利先生と
今より細い身体で上半身いつも裸の楠本先生であった。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
と皆大声で…… その響きが全山にこだまして
荘厳極まりない雰囲気をかもし出していたものである。

世の人が見たら、何んと不思議な光景に映ったことであろう。
ここはお金を払って土運びの土方のような仕事をして尚且つ
「ありがとうございます」と感謝するのである。
然し、理屈抜きの唯、生命までを神に捧げ切る無我献身の中に、
奇蹟が生じ、新生の喜びを感じたものである。

今顧みて、あの頃の光景がありありと浮かんで来る。
現代の宇宙科学の時代に動力なる機械なるものを何一つ使わず、
神の子の尊い生命を捧げた無我献身の魂の結晶が
今日の宇治の姿である事を思いつつ……。


 

 

 

 


©生長の家宇治別格本山