『宇治だより』 第4号 昭和55年6月10日
16年間、毎月宇治参りをしています
広島県相愛会連合会長 能力開発センター 宇治研修所参与(当時) 佐古俊夫
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私と宇治別格本山との出合いは、昭和三十年でした。
まだ宝蔵神社が影も形もなく、献労が盛んに行われていた頃で、
青年会の見真会が行なわれましたが、それに参加のときでした。
その時の楽しかった想い出は今もなお、私の胸の中にあります。
現在、私は宇治の能力センターの講師として、毎月通わせて戴いておりますが、
この研修会が開催されたのが、昭和四十六年でしたので、もう十年になります。
それ以前に、昭和四十年に県の連合会長に推薦され、連合会長、即、
宇治別格本山評議員ですのでプラス六年、かれこれ十六年間も毎月、
宇治本山参りをさせて頂いております。
宇治別格本山のことで、皆さんに大変喜んで戴いたことが二件あります。
一つは、宇治対策部のことです。
広島県が実施したこの方法が全国に影響を与え、多くの教区に宇治対策部が
誕生しました。私が連合会長になった当初は、広島県の霊牌数は三万余で、
評議員会に出席した日は霊牌の推進にも力をと思うのですが、本部の各部局の
広範囲な運動に追われ、宇治のことはつい後回しでした。
それでも私は宇治が大好きですので、何とかの気持ちはありました。
私の持論として各々の運動に対策部を持つべきであると考えており、
ある日、副会長の景山氏に「宇治に生涯を賭けてくれる人はいないですか」
と相談したところ、狐に摘まれた様な顔をされていましたが、翌日になって、
意志が通じたのか、「それでは僕が」と有難い返事が返ってきました。
それで全国初の宇治対策部が誕生し、その年から六万余の霊牌が
奉安出来る様になりました。
もう一つは、昭和五十二年から実施した霊牌を二十枚一括し、
封筒に入れて
配布したことです。この方法も新しい推進法として全国に紹介され、多くの教区で
採用されています。
私共は度々経験することですが、運動でその趣旨が正しく徹底理解されることが
大切で、それに成功すれば多くの成果を納めることが出来るものです。
実は、このアイデア、霊牌の正しい取扱い方を、徹底理解してもらうための
苦肉の策だったのです。従来、趣意書を別に印刷して配布していましたが、
解っていると思い込んで受け取らず読まない人が多くいることが判りました。
それで趣意書と霊牌が別々にならない様に、封筒に趣旨を直接印刷して、
その封筒に霊牌を入れて配布する方法が考え出されたのです。
アイデアの勝利です。
その年から一挙二万余上昇し、八万余柱を奉安させて戴くことが出来ました。