『 宇治だより 』  宇治を愛する人  

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『宇治だより』 第9号  昭和56年12月1日 

 若き日の宇治の思い出

大阪府教区地方講師会長(当時)  吉倉修三
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 今年も盂蘭盆供養大祭が盛大に終わった。
大祭に参拝する善男善女の人混みを、手際よく整理する交通係の警察官や
奉仕の方の姿を見ていると、汗とホコリにまみれ乍ら得意気に、見よう見真似の
手信号で、交通整理の奉仕をしていた青年会員の頃が思い出される。

 宇治では林間講習(昭和二十八年八月)のその昔から種々と奉仕の思い出がある。
風のそよぎ、星のまたたきにもそれらが蘇る。

 見る物、ふれるもの全てが思い出であり、それが忘れ難き人々への追憶にも
つながる。力一ぱい働いた満足感に疲れも忘れ、汗ばんだ体を薄暮の宇治川の
川面を渡る川風に涼をとり乍ら、対岸の長い琴坂を登って宿舎の「興聖寺」に
帰った日の事などが、あの時の友の面影と共に昨日の事のように思い出される。

 歳月の流れは正に矢の如しだ。
共に日本を語り運動への若い情熱を熱したあの友や、明日の大阪の建設について
宇治川の清流のほとりで夢を語り、共に手を取ってその実現を誓い合ったあの人とも
別れて久しい。

 彼等は今何処でどうしているのか知らない。
会う事はなくあとも友等は幸せの道を歩みつつあの時の誓いを忘れないで、
それぞれの立場持場で理想の日本の建設に寄与して呉れている事だろう。
又、惜しまれ乍ら、その才能と仕事を残して早や神の御許に帰って逝った友も
少なくない。

 しかし、絶えて久しく会わない友も、遠くでその使命に生きている人も、
宇治の大祭の季節になれば青春の思い出と共に聖地宇治を思い出し、
なつかしみの一時を送っているに違いない。

 又、現幽相離れて霊界のつとめにいそしむ友も此の季節を待ち焦がれ、
香華の流れる中に宇治の聖地に帰って来てくれるだろう。

 人は変り時は移っても、私達の心の中からは宇治は永久に消える事はない。
何処にあっても、如何なる時でも「魂のふるさと宇治」を持っている私達は
此の上なき幸せ者であり、何者にも代え難きよろこびである。

 

 

 

 


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