1051, 父は私を見捨てたのではなかった  

9月一般練成会 発表日:H26.9.20

  八月に私にとって、とても理不尽と思える出来事が起こり、心がグチャグチャになり、
気持ちの整理をしたくて宇治の一般練成会を思い出しました。

しかし、十数年ぶりですし、迷いましたので、日帰りで参加させて頂きました。

楠本先生に個人指導をお願いしました。

 相談が進むにつれ、八月の出来事は宇治練成参加の単なる切っ掛けに過ぎず、
核心は私の両親への感謝の話しとなりました。

 両親は十数年前に他界しておりますが、私が物心ついた頃から父には外に愛人がいて、
両親は不仲でした。

 当時子供だった私には分りませんでしたが、何か大人の事情があったのでしょう。
会話をしない夫婦で家庭は暗く、また経済的にも苦しい状態でした。

 私は成長する中で父への不平不満で心中を一杯にして、大嫌いと思っていました。
そんなある日、私の首に良性腫瘍がみつかり、痛みはありませんでしたが
五十年経った今でもそのままの大きさで残っています。

楠本先生は 「父親への不平不満で膨れるんだからね」 と説明して下さいました。

 私が中三の頃、完全別居となり、父は母に離婚を迫り、包丁まで持って来るようになりました。
そして私が高一の時、両親は正式に離婚しました。

 私は父から捨てられたと思いましたし、近所の人からも 「あんた達は捨てられたんだ」 と
冷ややかな目で見られました。

 私の子供時代から青春時代はどん底でした。
そんな中、母の友人が『白鳩』誌をくれまして、私も夏休み練成会などに参加するようになりました。
そうしながら私は二十五歳で結婚しました。

 一般の人で、子供は三人生まれましたが、十七年後に夫は癌で亡くなりました。
末期癌を宣告された夫を連れて宇治練成に参加させて頂きました。
夫は四十七歳、私は四十二歳でした。

 「三人の子供を残してゆくご主人の気持ち、分かるだろう?」と楠本先生はおっしゃいました。

何故私は父や夫など目上の男性と縁が薄いのだろうとずっと思っていました。
そして母のことも心の中で裁いていました。

楠本先生は、父への感謝、母への感謝、そして夫への感謝も説いて下さいました。

 私が母子家庭になって必死で子育て中、病床の父から突然電話が入りました。
番号は調べたようです。もう長くないと直感しましたが、何を今さらという気持ちもあって、
身体に気を付けてねといいましたが、死に目には会いに行きませんでした。

 楠本先生は、
「お父さんはね、死ぬ前に君にすまなかったと言いたかったんだよ、
父として娘を育てることが出来なかったと・・・ 
むしろ一緒にいられなかったお父さんの方が悲しいと思っていると思うよ。
自分の父はその人、一人しかいないんだよ、これからの人生を、練成を受けて、
父に感謝して幸福な人生を送らないとね、三人の子供さんの幸福な結婚のためにもね、
どんな親であろうと感謝した時幸せになるんだよ、感謝する以外に幸福になる道はないよ、
自分の責任なんだ、神の子の自覚なんだ、前世の業を消す為に自分からそういう親を選んだんだ、
お父さんは前世の業を消してくれる観世音菩薩ですよ。命日は知っているのですか?
来週都合つけて宇治練成に来なさい、お父さんへの感謝の事、解決出来るよ」

と分かりやすくご指導下さいました。

 私は長年の胸のつかえがとれて、先生のお言葉がストーンと心の底に落ちました。
そうだったんだと納得できました。
捨てられたことを思っていたけれど、愛されていたんだ、母にも心の中で裁いていたことを謝り、
夫にも色々と申し訳ありませんでしたと反省し感謝しました。

 現象の姿の父と母、そして神の子としての父と母、神の子としての夫、そして私、
そして三人の子供達、みんな一つ生命だったんだと分りました。

父の命日もすぐ調べて練成中の先祖供養に間に合いました。

十五日から二十日の練成参加も仕事のやりくりが都合良くいき参加出来ました。
浄心行では思い切り声が枯れるほど父を呼びました。母も呼びました。夫も呼びました。
大粒の涙が頬を幾筋も流れました。

 座談会で輪になっている時、誰かが私の背中と腰のあたりを押したので、
何気なく後ろを振り返りましたが誰もいませんでした。温かい感じでした。

 真理を学び、「父母への感謝第一」がぶれないよう、しっかりと体得したいと思います。
宇治練成でご指導下さった先生方、ありがとうございました。


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