1142神想観は喜びだ!

 

 今回宇治の練成に参加しようと思った理由は大学受験が一段落して、
合格発表の日まで特に何もすることがなかったからと、以前から一度宇治の練成会に
参加してみたいと思っていたからです。

 実際に参加してみて、様々な体験をさせてもらいました。
その中で 強く心に残っていることを二つ書きます。

 一つ目は、僕は祈り方を間違えていたということです。
いつも何かをお祈りする時、例えば誰かが病気になってしまった時に
「誰々の病気が治りました。ありがとうございます」と念じていました。

 しかし、ご講話を聴いている内に、僕は病気という本来存在しない現象を認めて、
それに捉われたままの祈り方をしていたことに気が付きました。
なので、これからはその人の現象の事ではなく、実相を見つめて念じようと決めました。

 二つ目は、清水講師がご講話の中で話されていた「神想観は喜びだ」ということです。
二年前に生長の家の御教えを大阪の練成会で学び、その練成の後、4ヶ月間
毎日休まず神想観を続けていたのですが、教区の青年会の人達にその事を話すと、
いつも驚かれて「素晴らしい、素晴らしい」と言われていました。

 最初の頃は嬉しかったのですが、途中からは神想観を続けているのが
一種の義務であるように感じ、少し心苦しく感じる一方で、生高連では
入信一年で副連盟委員長を拝命し、神想観を続けていくにつれて周囲から
プレッシャーを感じるようになり、結局やめてしまいました。

 神招歌を忘れてしまうほど神想観をしない日々が続いていたところ、
先ほど書いた「神想観は喜びだ」と仰る先生のご講話を聴くことになりました。

 神想観は少し前の圧力を思い出して苦しくなるだけだと思っていたのですが、
「喜びだ」と言う言葉を聴いて、本来の神想観、僕が二年前に学んで実践していた頃の
神想観は誰のためでもなく、自分が嬉しくて、喜んでしていたことを思い出すことが出来ました。

 思い出した後、講話をとても嬉しそうに、楽しそうにされている先生の表情を見て、
聴いている内に「また神想観を続けよう」と思い始めていました。

 大学受験の発表があるからという理由で、15日の浄心行の後に帰ったのですが、
帰宅途中の電車の中で、「もう一度宇治の練成に参加したい」と何度も思っていました。

 先ほどのような体験や、他に多くのご講話を聴いた後で、心の中が嬉しさと喜びと楽しさで
溢れていた僕は家に帰ると直ぐにお母さんに「いつもありがとうね」と言っていました。
その夜の寝る前に久しぶりに神想観をして、ますます幸せな気持ちの中で布団に入りました。

 翌日、無事第一志望高に合格したと分ってから、親戚をはじめとした多くの人々に
合格した事を伝えていました。

 沢山の祝福の中、やはり宇治の練成で一緒になり、合格してたらいいねと
言って下さっていた人達に直接言いたいと思っていました。
ですが、次の日もまた次の日も既に予定が入っていて、二月中には来れないと諦めていました。
しかし、神想観を一人で実修しているうちに、どんどん「宇治に行けるかもしれない」
と思えるような事が起こりました。

  遊ぶ約束をしていた友達が急に用事が入ったと言い、20日に学校に行って
先生や大好きなA達に合格した事を伝えようと思っていたのを変更して
18日の午前中に済むようにして、午後から19日の午前中にかけてお爺ちゃんの家に泊まり、
介護のような事をした後、また宇治の練成に参加出来るようになりました。
もやは自分の力ではないと思える事態をただ喜んでいました。

 神想観の最後の方で「神様、私をどうぞ御心のままにお使い下さい」
と念じていた効果かは分りませんが、全て良き方向に、そしてもう一度宇治に導かれました。

合格して戻ってきたことを沢山の人に言うことが出来て、喜びでいっぱいになりました。

 この練成会を通して、四つの事を決意します。
一つ目は喜びの神想観をこれからも続けていくことです。
二つ目は、何事も良いように捉えるということです。
三つ目はともっともっと他の人の良い所を見つけ、嬉しい時は嬉しいと感じつつ、
それ自体を讃嘆することが出来る人になるということです。
四つ目は、現象界で誰が何をしようとも人間は神の子で素晴らしい存在なんだということを
忘れずに生活することです。

 欲張って四つも決意してしまいましたが、直ぐにでなくても、
一つずつでも実現して幸せな人生を送ります。

ありがとうございました。











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