思えば研修生になるまで好き勝手に生きてきました。
学生時代にはタバコに窃盗、中学高校の六年間の内、五年間はシンナーをたしなんでおりました。
ただ私は不良ではなく、ワンパク少年でした。
シンナーをやりましたのも幻覚を見たいのが動機でしたが、
五年間で一回も見る事が出来ませんでした。
社会人になってからもギャンブルと酒が中心の生活で、
嫌な事があれば酒で紛らわす毎日でした。
不平不満を常に持っていましたので、仕事も私生活も楽しくはありませんでしたし、
良い結果もなく、酒を飲むことが唯一のくつろげる時間でした。
そんな堕落した生活でしたので、色々あって仕事をなくし、
二十数年前に生長の家の練成に参加した時、
目の見えなかったお婆ちゃんが突如として急に泣き出し、
目が見えるようになったと叫んでいる姿を直ぐ近くで見ていたので、
これは生長の家にすがるしかないと思い、去年の九月に練成参加となりました。
その後、研修生になりましたが、自由に生きてきた私の心の習慣があり、
今までの六ヶ月、どんどん自壊作用が出てきました。
自分を裁き、他人を裁き、悪いものが出て反省しての繰り返しでした。
研修生活三ヶ月を目前にした時に、色々な現象での嫌な事が重なって、
「これは我を捨てる必要があるな」 と思い下山しました。
普通に考えたら宇治に残った方がいいに決まっているのに逃げる感覚ではなく、
我を捨てるために家に帰ろうと当然のように思いました。
家に戻ってとにかく聖典を読む毎日でした。そんなある日、
「我を捨てるとは利己心を捨てることであり、それは五官の感覚である肉体を捨てることだ」
と、そして自分は霊的実在だと感じた時に神との一体感を理解しました。
そんな悟りがあったのなら、その後順調な研修生活であったかといえば、
相変わらずで、フラフラしておりました。
しかし、今回一般練成に参加しまして、現象はどうでもよくなりました。
「物質はない、肉体はない」 は理解出来ても、
「心もない」 が分りませんでしたが、この練成で放つことが出来ました。
悟る悟らないの私ではなく、ただ行じる私が神と一体となり、
神の子として為しているだけです。
最近、宇宙の大生命とのつながりを感じる神想観は心地良く、
悦びの時間になりつつあります。
「神の子の自覚とは、心で描いたとおりのものが現象として顕れているのだから、
全ての責任を自分で取ることだ」 という長田講師の一言が今の私には強く響いています。
これからは常に実相と現象を分ける習慣をつけ、
自分の生命、他人(ひと)の生命を礼拝し、相手の良い所、実相を観るようにします。
善一元の大調和の光のみの世界、神の子として真理の道そのものになって
明るく楽しく生活すること、神の子として生きることが我を捨てることだと今は考えます。
『生命の実相』 には 「生活に生かすのが生長の家」 だと書いてありましたので実践します。
私は実相そのものであり、神そのものであります。
そして全ての生命も同じものが宿っていると強く感じます。
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