更年期障害による鬱状態がひどく、明るく元気な自分を取り戻したくて参加しました。
昨年一月頃より凄く親切にして頂いていた職場の社長よりパワハラを受け、
それを機に長年股関節の痛みに耐え、頑張ってきた事が限界となり、
大学病院で検査を受けた所、両関節の軟骨が全くなくなり、骨に穴が開いた状態となっていました。
「もうまったなし、これ以上手術を延ばすと歩けなくなる」と言われ、
重たいものを持ってはいけない、歩いてはいけない、動かずジッとしていて下さいとのことで、
長年福祉の仕事をしていた私はもう働けない身体となってしまいました。
私には二人の子供がいますが、二十八歳で離婚をし、一人で三十六歳まで育てていましたが、
その頃知り合った九歳年下の彼と籍を入れないまま十年が経過していました。
子供の為にかかる費用は全て自分の稼ぎでまかない、バリバリ働いていた為、
凄く自分にも自信がありました。
働くことが出来なくなった私は今までの自分がどこかに行ってしまい、不安がつのり、
泣いてばかりの日々で、彼を困らせてしまい、そんな自分も嫌で嫌で、
また自分を追い込んでいきました。
そんな中、六月末に一回目の右足の手術後、家に戻ると更に心が不安定となり、
どんどん暗いトンネルの中に入り、抜け出すことが出来なくなりました。
そんな中、十月、息子が 「付き合っていた子との間に子供が出来たかも、どうしよう・・・」
との電話があり、まだ二十三歳の息子は働き出して二年目、収入も少なく、
家庭を持ってやっていけるのか、でも生命は無駄にしてはいけない。
私は稼ぎもないので助けてあげることも出来ないため、不安は募るばかりでした。
息子は父親になる決心をしました。安堵したものの、心は不安定なままでした。
そんな中、十一月に左足の手術をしました。
その後、息子は結婚式を終えましたが、まだまだ働ける身体に戻れない私は
やはりどんどん自分を追い込んでいきました。
彼はこんな身体の女なんてもう嫌いなんじゃなかろうか。
何もまともに出来ない。私はただのお荷物だ。生きている価値もない。
死ななきゃいけないと思うようになり、これはもしかしたら更年期障害かと思い、
婦人科で尋ねると、案の定更年期障害との診断を受け、ホルモン治療をはじめました。
一旦は回復に向かったかのうように思われたのですが、また少しの切っ掛けで
更に落ち込んでしまいました。
落ち出したらきりがなく、元気のない私の姿を見たくない様子が彼から伺えたため、
私は必死に元気なふりの演技をするようになりました。
とうとう私はそれにも限界が来て、ついに宇治の練成に行ってみようと決意し、
母に相談し、家に置手紙を置いて、術後初めて一人で藁をもすがる思いで
新幹線と電車を乗り継いでここへやって来ました。
一日目より涙が出て止まりませんでした。
不安定な心は治まるどころか、悪化する一方で、長田講師を追っかけては泣くばかり。
「先生、私何しに宇治に来たの?ちっとも変わらへん」と泣いてばかりでした。
感謝行も人と同じように出来ず、涙が出てくる。
もう帰りたい。家が恋しくてたまらなくなりました。
もうこのまま帰ろう。立ち直れない。無理だと、
そんな事ばかり思っていました。
今回の練成では、初めから最後まで泣いてばかりで、沢山の方々に
ご迷惑をおかけしましたが、多くの人の愛を受け、何とかここまで来ました。
次は私が人に与える番ですね。宇治に来てからは不思議な事が沢山ありました。
「○○講師に会いたい」 と思うとその講師が前から歩いてくる。
以前研修生をしていて、とても仲良くしていた子にも偶然喫煙室で会いました。
その子の話を色々聞いて、めちゃくちゃポジティブに物事を考える姿と思えて、
とても勇気をもらいました。沢山の出会いに感謝します。
ここに来て、今まで思いもしなかった事にも沢山気付く事が出来ました。
寂しいのは自分だけだと思っていたけど彼もそうだったんだと気付きました。
帰ったら彼を什一会員に入れ、流産児供養、先祖供養を真剣にやろうと思います。
神想観は今までどおり、いつでもどこでも出来るので続けていきます。
そして、これからは絶対マイナスの言葉は言いません。
コトバで人生が変わるなら、良い言葉以外使用禁止です。
そして辛い事があってここに戻ってくるということのない生活をします。
楽しい事があって、報告に来る場所にします。
そしていつか家族で参加出来るようになりたいです。
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