1457真理を自動車のメカニズムに例えて理解


練成会礼状

 私は先日、楽しく行ずる練成会に参加致しましたが、その後の近況を報告します。
私は仕事先で嫌な事があり、払拭するために全てを忘れて一心不乱に行じたくなり宇治に来ました。

 二日目の夜の感想文では、生長の家の教えとは真逆のマイナスの言葉を書きました。
私にはテーマがあり、それは 「ただ行じること」 でした。

 練成に参加することに何かを求めるとか、何かを放すではなく、ただ行ずる。
そこから何らかの気付きがあると思いました。

 しかし気付きを求めているのですから、何かを求めていることになり、
やはり私の奥底に 「おかげ信仰」 が根付いていたのは、この文章からも明らかです。

 そんな私を三日目の最終日の朝、神のご愛念は私を包んで下さいました。
「既に完全である」 この力強い言葉が私を支配し、雲の切れ間から光が差すような、
そんな優しさを感じました。

 その言葉は知っていましたが、感情で受け止める至福の瞬間でした。
やはり宇治はいいなと実感し、家に帰ったのですが、次の日も神様は私に手を差し伸べて下さいました。

 会社の仲間を送迎して毎日通っているのですが、仲間の家に着き、時間待ちをしていました。
昨日までの余韻もあり、車のエンジンを止めて感謝行と神想観の思念をしていました。
仲間が来て車を出そうとしたところ、エンジンがかかりません。
「バッテリーだな!!」私は直感でそう思い、とりあえず仲間には自力で会社に行ってもらいました。
ロードサービスを呼び、待っている間、私は考えました。
光明思念をした直後に何でこんな事態が起こったのであろうか?私の行が足りないのか?
業の消え行く姿か?
笑って下さい。ドライブ(D)のままエンジンを切っていただけでした。
パーキング(ニュートラル)にしなければエンジンがかからない事は運転をする人間は誰でも知っています。私はまんまと遅刻です。会社の皆さんにも笑って頂きました。

 この何気ない日常の中に真理が隠れています。
元々完全である動く車(人間)を観る側が動かない(不完全)と見ようが車が走る(完全)と見ようが、
既に完全であったのです。
既に完全である実相を観ないで病気とか不幸とかが、仮に現象に出てこようとも
「仮想(かりのすがた)は永遠に仮想(かそう)にして実在となることを得ず」とあるように、
幻の如く偽物であって実在ではありません。

 では、三正行は何のためにするのであろうか、それはパーキングでエンジンをかけるようなものだと
私は考えます。ニュートラル(三正行をしない状態)でもエンジンはかかりますが、
サイドブレーキを引いていない坂道では危険が伴います。その危険こそが悩みや苦しみ、
不幸とか病気です。

 人間は本来自性円満、そのまま完全であり、神の子(神)が不完全である現象に
肉体という仮の宇宙服を着て如来している光であり、仏でもあります。
「牡鹿の脚」のように後脚が前脚の行ったあとをぴったり踏むように、
神の子なるがゆえに神の生命を感じる三正行をやらずにはおれない、
それが本山員の方々の心境ではないでしょうか。

 私はまだその域には達していませんが、(I am~)人はなりたいものになれるものです。
では、私は神の子として神になりましょう。
私は既に完全であり、全ての人の奥にある完全を観続けて、実相の世界に生活し、
神の叡智をそのままにまかせきります。神に感謝します。
そして、聖霊天降る宇治の地で毎日ご愛念の祈りをして下さる宇治別格本山の皆様の
賜物であると強く感じます。有難うございます。




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