弟の生活全般の行き詰まりと、精神的な不安定と病気の知らせを受け、
父の永代供養のお祀りに合わせて参加しました。
私自身、地元ではお役を受け、地方講師の資格もあるものの、
近頃は一時の 「絶対大丈夫」 という熱情もいい加減で冷め、離れることはないものの、
御教えに対して何か他人事のような気持ちになりかけておりました。
うまくいくもいかないも時の運、執着せず、淡々と毎日を過ごすこと、平穏な日常を求める余り、
何事もいいかげんにやった方が良いとさえ思うようになっておりました。
しかし宇治へ来て、やはり真剣に “行” はやらないといけない。
「結果に執着しない事と、生半可な信仰を持つ事は違う」と改めて思いました。
心が軽くなったのは、講師の皆様がまず全員で練成員を祈って下さった時です。
「ただ受ければいいのですよ。 何も力まず、考え込まず、そのままで
神様に包まれた気持ちになれば良い」と指導され、その通りやってみたら
本当に楽になりました。
今まで 「しっかりやろう」 とか、 「こうやったら効果が出る」 とか、どうしても考えてしまって、
いつの間にか疲れが出ていました。
ここ宇治ではずっと実相のことを話され、忘れていた 「そのままで神の子でいいんだ。
甘えてもいいんだ。 日常の仕事や生活で力を出し、励むことと神様に甘えることは両立してよい」
そう思うと、必死で全托しないといけないと思っていた力みが抜けてきて、
「もういいんだ、何だか何も考えないで托すのは無責任なバカなことだ」
と、どこかにあった思いがとれたように思います。
心が軽くなってほっこりしてきました。ありがとうございます。
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