私は昔から物事に躓いてしまうと、小さな事でも「もうダメになってしまった」
と投げ出してしまったり、続けたとしても心が折れて
ダラダラとしてしまうことがよくありました。
仕事でも、大きな役目をいただきプレッシャーに負けじと働いていましたが、
何事も疑ってかかるかのような上司の目に耐えられず、
素直に従う気持ちも尽きて心が空になった状態で今回宇治を訪れました。
何度か練成会には参加させていただいておりましたが、
私の心は一度も“空”になどなっていなかったことを思い出しました。
思い通りにいかない事を自分で気にして、
自分でダメにしてしまっていたことに気付きました。
浄心行では、家族一人一人へ向けて全て出し切ろうと、
みっちりと、後悔や伝えたい事 を書きました。
特に父に対しては思い出そうとすると、
死期の前後のことばかり浮かんでしまい…
教えの知識としては、
父の生命は肉体にあるわけではないことを理解しているつもりなのですが、
未だに強烈な未練があったことに自分でも驚きました。
用紙を燃やしている最中は、家族との様々な思い出が沸き起こり、
涙が込み上げてきましたが、聖経を誦げた最後の数分は何の理由も無く、
ただありがたいと感じられて、本当に不思議な体験でした。
この十日間の生活を振り返ると、全てが上手くこなせた訳ではなく、
講話もノートが取り切れなかったり、神想観も集中力が切れてしまったりして、
取りこぼしたような気になってしまう時がありましたが、
「今、この瞬間から過ぎたことは過去にしよう!」と思うことが出来、
ここからは最高の心持ちで取り組もうと奮起しました。
ここ最近は家族のことを振り返る時間がなく、母との電話中に、
「毎日家族皆のことをお祈りしていますよ」と話してもらった時も、
「ありがとう」と生返事をしていましが、大変ありがいことだとようやく気付きました。
反省するとともに、自分も一日に一度は家族の顔を思い出し、
神想観とお祈りを実践したいと思います。 |