2044愛されていた記憶に辿り着き、やっと心に描けた“ひとつ”の家族

一般練成会感想

  私は4月から東京で新社会人として働くにあたり、
信仰という「心の柱」を確立したいと思い、宇治の練成を受けることを決めました。

一昨年内定をいただいていた会社から突然「内定取り消し」を告げられました。
何を言っても信用されず、最後には自分の人生すべてを否定され、茫然と帰宅しました。

「自分にはもう生きている価値がないから、もう死のう。」こう考え、
母に最後の電話をした時に「あんたそこにいなさい。今から迎えに行くから。」と、
当時の下宿先まで迎えに来てくれたので、まだ生きています。

 これ程まで自分を追い込んだ人達を赦すことが出来ず、
ずっと心の片隅にこの事件が残っていました。しかし、2日目の講話で、
この暗い過去から解き放たれました。

 自分は、心は実相だと思っていたのですが、これが違ったと解りました。
「心は現象であり、本来存在しない。」この言葉を聞いた時、心が無いということは、
自分が赦せなくてモヤモヤしていた心も存在しないということだと気付きました。
この気付きと共に就職内定とり消し事件を心から捨て去ることが出来、
とてもスッキリしました。この時から心に余裕が生まれました。

 この練成会は、「家族」を終始意識した生活でした。
母親には本当に心から感謝していたのですが、父親とは不調和で、
これまでの「感謝」は表面上の口だけの感謝でした。

3日目最後の講話で「肉体人間(不完全な現象)には感謝できない。
その人の実相に感謝する。」という話を聞きました。
「そうか、父の実相なら祈れるかもしれない。」と感じて、
翌朝の神想観ですぐに祈り、感謝できました。
しかし、何か腑に落ちないところもありつつ朝の神想観が終わりました。

 こんな心境が満たされたのは、浄心行の日にあった清水講師の講話が契機でした。
観方が変わると味方となる。というのは経験として聞いたことがあったのですが、
自身の体験を聞いているうちに、ふと「お父さんの愛」という言葉が頭に浮かびました。
「応用してみると、いいんじゃないか。」とも浮かんできて、
早速ノートに父への不満を書きました。

「退職後はゲーム三昧だ」と何度も語る父に呆れていました。
しかし、観方を変えてみると、「今まで自分がやりたかったゲームを我慢して、
仕事に取り組んで家族の生活を支えてくれていた愛の塊だったのではないか...。
仕事を中途半端にして、ゲームすることも出来ただろうに、家族のために、
いつも頑張ってくれていた…。」この愛、無限の愛に気付いた時、
心の底から「ありがとう」と言葉が溢れてきました。
この大発見の後にあった浄心行は、今まで受けてきた中で最高でした。

 父母への感謝ができて大満足だったのですが、
17日のQ&Aでボソッと仰った「比較は地獄」という言葉が何故か頭から離れませんでした。
その日の夜、まだ「比較は地獄」ということが気になっていて、
翌朝になっても消えませんでした。
疑問に感じながらも岡田浩二講師の兄弟の話を聴いていました。
「愛を与えると、これまで受けてきた愛に気付ける。」という話になった時、
また、ふと頭に「兄に感謝だ。」と浮かびました。

 自分には3歳上の兄がいます。自分が小学校の時に、
人前で兄に馬鹿にされて、そこで言い返せなかったのが悔しくて、
その時からずっと「見返してやる。」と思っていました。
今思うと周りの人達にもしてしまっていました。

 お父さんに心から感謝できるようになってから、
神想観では両親が笑顔で合掌している姿が想像出来ました。
しかし、そこに同じ家族の兄はいません。

このモヤモヤを清水講師に相談すると「お兄さんは一番近いあなたの分身だからね。」
と仰いました。そうか、分身…と思いながら夜の神想観で調和を試みました。
でも、すぐに「ありがとうございます」が出てきません。
それでも和解の神想観をしていると、徐々に兄との思い出が蘇ってきました。

 いっぱい笑って、いっぱいケンカして「おまえはすぐ泣くから嫌や。」
と言いながらも地元を探検したこと…。良いことも悪いことも、次々と思い出しました。
そのひとつひとつの思い出が想起される度に「すべてよし」とスタンプを押して、
どこか遠くに浄化されていくような、何とも言いがたい、でも心地よい時間が流れました。

思い出すことが一通り終わったとき、光の中で合掌している家族が観えました。
兄もいます。自然と「愛されて生きてきたんだな。」と感じて、「ありがとうございます。」
と何度も心の中で唱えました。

 自分の分身と言われるほどの存在をずっと心の奥底で否定して生きていたのですが、
このときにやっと「兄は兄で素晴らしい神の子さんだ。」と思うことができました。
比較する必要なんてありませんでした。「ごめんね、ありがとね。」と何度か想った後、
心が本当に透き通ったような感覚になりました。

 宇治での1年間は、10年分の経験ができるといった感じのことを講話で聞いていてのですが、
本当に次々に課題が出ては浄化していく感動の10日間でした。

今回の「家族」がマイテーマの練成はとても充実していました。
このまま研修生として、より一層、神様の愛の表現を神様と一緒にしていきます。


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