今回久しぶりに宇治の一日講話に参加して、
講師の方々のお話をそのまま素直に聴かせていただくことができました。
日常生活では、聖典拝読や神想観をしても、
そのまま受け取ることが出来なくて、
こんな自分は幸せになってはいけないという想いが心の中にあって、
真理の言葉をブロックしていました。
千羽講師の講話の中にも
「私達が幸せを受け入れる覚悟が必要である」とおっしゃっていて、
神様がいくら私達を幸せにしたいと思っても、
それを受け取る私が拒否していたら、
神様は幸せを与えたくても与えられないんだということがわかりました。
神様は私を見放したわけではなく、幸せを与えてくれなかったわけでもなく、
自分が神様からの幸せを受け取ろうとしなかったということに気づかされました。
「祈り合いの神想観」では、祈られる側として参加しました。
今までは祈られる側は恥ずかしさもあって、
皆さんの前に座ることに抵抗があったのですが、
今回はそのままの自分はどっちに座りたいかをごまかさず、
祈って欲しいという思いのまま行動しました。
すると家での神想観とは違い、自分を否定したり、
この先の不安を感じることなく、
心からの安心感と神様に護られている自分を感じることが出来ました。
有難うございました。 |