発祥の頃―「生長の家」誌創刊
昨日、ここ宇治の地に初めてお稲荷様のお祀りがございました。それにつきまして、初めてお稲荷様をお祀りする頃から今日に至る迄の想い出を話させて頂きたいと思います。
今年で生長の家は四十五周年を迎えました。今から四十五年前に「生長の家」が創刊されました時、皆様御承知のように現在住吉道場といわれております、あの藤棚の家に、住吉の隣りの町の御影から移って参りまして創刊いたしましたのは、昭和五年三月一日と表向きはなっておりますけれども、実際は前の年の十二月に「生長の家」が出来たのでございました。
私共夫婦は度々皆様に申上げますように始めは誌友というものが一人もいない中から出版しまして、この「生長の家」の創刊号を誰に読んでもらおうかと二人で相談致しまして、あらゆる知り合いを辿っては発送致しました。先生も色々知り合いのお友達の雑誌なんかに紹介してもらったり、私はまた女学校の同窓会誌を読んで、この人は精神的な人だから分って下さるだろうと思うような人を選んでは、皆様にお送り致しました。その無代頒布は千部でございまして、六ヵ月ばかし無代発送が続いたのでございました。
勇子さんー勇湯のおかみ
誰か顔を見ると「生長の家」を読んで頂きたいと思っておりました私は、毎日行きます風呂屋のおかみさんに、ある日創刊号を持って行きまして「私のところの主人は、今度こういうものを発行することになりました。あなたも一つ読んで下さい」と言いました。そこは、住吉と御影と二つの町の境目にあります私共の家からすぐ近くでございまして、勇湯と申しました。
勇湯という名前は、そのおかみさんが「勇ましい」という字の勇子さんという名前で、そのおかみさんの名前をとって勇湯と付けたようでございます。私は住吉へ移りましてその「生長の家」の創刊号をあげたんですけれども、それまで住んでいた御影の家の時も同じ勇湯に毎日先生も朝の五時から行かれますし、私は朝の後始末が済んでから行っておりましてお馴じみだったんでございます。その頃の勇湯は、非常に綺麗な大きな風呂屋でございまして、経済的にも豊かな家らしく見受けられました。
おかみさんは非常に愛想のいい方で、まるでおかみさんによってそこの風呂屋が経営されているように、いつもいつも番台に坐って、来る人来る人に愛想よく接しておられましたけれども、ある日私が、「お宅はいつもあなたばかりが番台にいて、あなたの所の御主人は、滅多にお見受けしませんね。どうなさっていらっしゃるんでしょうか」ってきいたことがあるんです。すると、その明るい笑顔のいいおかみさんの顔が急に曇りまして「ええ、あんな親父、どこをほっつき歩いているやら」と言うんです。
意外な告白
私は以外に思ったんです。そして、段々とそのおかみさんの目に涙が溜って参りまして
「谷口さんの奥さん、家の親父はね、女道楽をしてもう家に滅多に帰って来ないんです。
それで私はもう、年中、親父のことを思うたら腹が立って悲しうてなりません」と申されました。〝まあ、あんなに愛想のいい朗らかなおかみさんが、腹の中では泣いているんだ。
ああ、可哀想に″と私は思っておりました。
創刊号をあげてから幾日か経ちました時に、お風呂屋に行きましたら、「谷口さん」と呼び止められますので番台に近づいて行きましたら、「結構な御本を有難うございました」と言って、非常に感激したような顔をしてお礼を言われました。「まあ、読んで下さったんですか。また、次の号が出来たらあげましょうね」「有難うございます」という挨拶を交したことがございました。
その内にですね、ある日、ふと番台を見ますと、いつものおかみさんでなくて男の人が坐っているんです。珍しいなと思ってその人の顔を見ましたら、実に立派な男前なんです(笑い)。そしてお風呂屋の番台に坐るような感じの人じゃないんです。まあ、歳の頃からいっても陸軍大佐ぐらいかなあと(笑い)思うような堂々たる男性で、厳めしいお髯が生えてるんでございます(爆笑)。どうもこんなお髯の旦那様が坐ってるんじゃお風呂屋らしくないなと思ったんです。けれども、後で人から聞いてみたら、「あんな立派な男だもんで、女がほれてほれてねぇ(爆笑)家へ帰さないんですよ」っていうことを聞きました。
それでその前に伺ったおかみさんの嘆きも分ったんでございますが、その立派な旦那様は、たまに忘れた頃に番台に何かの事情でおかみさんの代りに坐っていることがありますけれども滅多にいないんです、お家にはね。毎日非常に繁盛しているお風呂屋でございましてね。おかみさんが一所懸命お風呂屋の経営をして、そして旦那様は使うばっかしをしていたらしいんでございます(爆笑)。
その内にそのおかみさんはね、突然、脳溢血で倒れまして中風になりまして、身体が動けなくなり言語障害を起こしました。それから、懐しいそのおかみさんの姿が、お風呂屋へ行っても見あたらないで、代わりにお髯の人が毎日坐っておりました。
裸の体操
谷口先生は、その頃は朝の五時から、起きたらすっとお風呂屋へ行く習慣だったもんですから、五時から開業しております一番最初のお客様が谷口先生だったんです。それで、お風呂屋の人気者だったらしいんでございます(笑い)。で、私が女湯におりますとね、そこのお風呂屋に男の三助が二人雇ってありまして、五十歳位の三助が、日吉さんと皆が言っておりましたが、その日吉さんというのが女風呂へ入って参りまして、桶を磨いたりするんですね。桶を磨きながら私に対して、
「谷口さんの奥さん、お宅の旦那さんおもしろいですよー」(笑い)
って言うんですわ。それから、
「どうしましたか」
って言いましたらね、
「朝五時から、誰もおらん時に飛びこんで来られて、それからねー、一温もりしたら体操されるんですよ(笑い)。その体操がとってもおもしろいのでね、三助達が皆憶えた」
と言うて先生の真似をして体操してみせるんです(爆笑)
そうしたら、女湯の人がおもしろがって皆笑いましたがね。風呂屋では先生の朝早く一番風呂に行って体操なさるというのが有名だったそうでございます。
女の幸福―乳母車の夫婦
そうしておりますうちにね、ある日、私が「生長の家」を乳母車に沢山積みまして、郵便局へ持って行こうとして町を乳母車を引いて参りますとね、向こうから、また乳母車がこっち向いてやって来ますの。段々近づいて来ますとね、私の乳母車には「生長の家」が乗っているんですが、向こうの乳母車には勇湯のおかみさんが乗ってて、お髯さんが引っぱっているんでございます(爆笑)。そして私が近づいて来ますとね、「あらまあおかみさん、あなた乳母車に乗せてもらっているの」
って言いましたらね、言語障害ですからね、はっきり言えず、うやぐやぐやともつれて言うんですけどもね。
「谷口さん、有難うございます。有難うございます。主人が深切にしてくれます」
って言うてね。まあようやく意味が分るんです。そして、そう言いながらポロポロ、ポロポロ涙を零してねぇ、「有難うございます。有難うございます」って私を拝むんです。私はおかみさんに「よかったですねえ」と言い、「あなたよくまあなさいますねえ。御苦労様ですねえ」ってそのお髯さんに申しましたら(笑声)、そのご主人が私に言われました。
「長いことこれには苦労をかけましたんでねえ。私に罰が当ったんです」
って仰るんです。
「どうぞねえ、深切にしてあげて下さいねえ。いいおかみさんですもの」
って私言いましたら、夫婦でまた「有難うございます」言うて別れたんでございますが、それからまた私が乳母車引いて時々町へ出ますと、また、乳母車引いて来るその御夫婦に何度か会いましたんです。そのたんびに乳母車の中の勇子さんがね、「有難うございます。有難うございます」と言ってもつれた声で涙を零すんです。
その時私は思いました。あの番台で、続々と入って来るお客様を迎えて、お金がどんどん入るお風呂屋で、経済的には豊かだったけれども、その豊かな経済を夫が皆、女道楽に使っていた時の勇子さんの不仕合わせを思い、今言葉がもつれ意味が分らなくても、そして五体が不自由でも、乳母車の中でああして夫や他人に感謝して涙を零す勇子さんの方が、どの位仕合わせだろうと思いました(拍手)。そして私は、ああして夫に感謝が出来、涙を零す勇子さん、ああ本当に仕合わせになってくれた。今の方が番台に坐って元気におしゃべりしていた頃よりよっぽど幸せだなと思っておりました。
お稲荷さんー熱心なすすめ
私ちょっと話の順序間違いましたけど、中風になる前のことなんです。お稲荷さんのことはねえ(爆笑)。創刊号を持って行った頃なんです。創刊号を持って行きましたら、その勇子さんがねえ、
「谷口さん、あなた、そういう仕事を始められたのならば、お稲荷さんをお祀りなさい」
って言うんです。
「あら私お稲荷さんって知りませんけどね。あのう、どうしてですか」って言いましたら、「お稲荷さんはね、あなたのようなお仕事をなさる方にはとってもお守り下さるんだから、必ずあなたのお仕事は成功しますよ。だから是非お稲荷さんをお祀りなさい」って、番台にいて勧めてくれたんです。私が〝さあ″ってな顔をして逡巡しておりますとね、「谷口さん、私ね、京都の伏見いう所にお稲荷さんの本社がありますから、そこへあなたをお連れしますから、是非是非お稲荷さんをお迎えなさいませんか、私がお伴します」と勧めてくれました。
私は京都へ一人ぼっちで行くこと出来ない程に京都を知りませんでしたから、逡巡していたんですが、勇子さんは、もう我が事のように熱心に勧めてくれるんです。「それじゃね、帰って主人に相談しましてね」って帰って来まして、そして会社から帰った先生に相談しましたら、「あんたがお祀りしたかったらしなさい」って言われまして、それじゃ、まあお許し得たんだから、せっかくの御深切はお受けしようかなっていうことで、お風呂屋さんの御都合のいい時にお願いしますということで、確かね、昭和五年二月の初めだったと思います。私と勇子さんと巫女の老女と三人で遥々と京都伏見へ行きました。
お稲荷さんへいらしたことのある方は御存知でしょうけど、本社からあの山の頂上まで随分あるんです。そこを三人で、赤い鳥居を潜りながらどんどん登って行きますとね、霜柱がキラキラと立っておりまして、その霜柱が下駄でザクザク、ザクザクと音立てて登った記憶があるんでございます。先生と子供と留守してもらうためには、会社員だった先生のことですから日曜日だったと思います。その時に私がお稲荷さんに向かって、「『生長の家』という雑誌を発行致しましたが、これの誌友が一万人に達しました時は、地祭させて頂きます」とお誓いしたんでございます。
満願の地祭―不思議な出会い
そしてその後、誌友が僅か千二百人位の時に住吉から東京へ移ったんでございますが、東京へ来まして何年経ちました頃か、遂に一万部突破したんでございます。その時に、約束に背くのは大嫌いな性分だもんですから、「一万人突破したから、お稲荷さん、地祭して差し上げたい」と先生に申上げまして、現在もございます赤坂の教文社と普及協会の間の石段を登った高い所にこの位のお社を出入りの大工に建ててもらいましてずっと今日まで、教文社と普及協会でお祀りして頂いている訳でございますが、何しろ終戦後の物のない時分ですから、漸く小さいのを建てることが出来ましたけれども、もっと立派なのを建てて差し上げたいなあ、と思っているうちに今日にいたったんでございます。
その今、赤坂にありますお社を建てます時にね、新たにお稲荷さんをお迎えに伏見まで私わざわざ行ったんでございます。その時に、伏見のお稲荷さんの本社の前で車を降りましたところ、思いがけなく現在生長の家の長老である堀静さんとそのお連れの五、六人の白鳩だの、妹だのという人達と、ばったりそこで会ったんでございます。「あら奥様どうしてこんな所にいらっしゃるんですか」って、みんな東京から来たお互いでございますが、「お稲荷さんをね、新たにお祀りしようと思って迎えに来たの、あなた達何しに来たの」って言いましたら、「ちょっと本部からお暇もらって京都見物に来たんです」って言われるんです。それが偶然に因縁のある人と同じお稲荷さんの本殿の前でばったり会いました。
一羽の白鳩―吉祥の前ぶれ
私が本社に向かって「高天原にー」って天津祝詞を跪(ひざまず)いてあげておりましたらね、後にいるその人達かですね、「あらあらあら…」って何だか騒ぐんでございます。祝詞をあげ終りましてから、「あなた達私が拝んでいる最中何かあったの」っていいましたところ、堀さん達がいうんです。「奥様が天津祝詞をあげていらっしゃる間中、一羽の白鳩が奥様の頭の上をクルクルクルクル舞っていた」っていうんです(拍手)。それで皆さんが驚きの声をあげたんだそうでございます。そしてその時お受けしたお稲荷さんを、赤坂の今の小さいお社にお祀りしているんでございます。
最初にお受けしたお稲荷さんは自宅にずうっと四十五年間お祀りしていたんでございます。この度宇治にお祀り致しましたのは私共が四十五年お祀りしていたお稲荷さんを、今度私共がお連れしてあそこ(註・宇治別格本山の末一稲荷神社)へ納めたんでございます(拍手)。そして皆様のお蔭であんな立派なお祀りが厳かに行われまして、本当に私は稲荷大神様に「お蔭様で『生長の家』の誌友が一万人できたら地祭して差し上げますとお誓いしたのでございますが、二百三十万人突破した今日、立派なお社ができました」と感謝いたしました(拍手)。本当に皆様の御協力によることと誠に有難う存じます。
魂のふるさとーあの水の清さよ
赤坂のお社に祀ったお稲荷さんをお迎えしました時に、私が行くと聞いた京都の白鳩会長とか幹部の人、それから和田先生もいらしたと思うんですが、和田先生と星丘さんと、男の人も二人位一緒に私についていて下さったと思いますが、その時誰かが「奥様、宇治って所いらしたことありますか」って言うんです。「宇治ってとこ私行ったことありません」「じゃお天気はいいし奥様せっかくいらしたから宇治へお連れしましょう」ということになりまして、それで皆さんに宇治へ連れてって頂いたのが始めてでございました。
そしてそこで公園菊屋というお家でお昼御飯を頂いた時に、菊屋のおかみさんが白鳩でございまして、とっても喜んで頂いて皆さんで御馳走を頂いて、それから、小さな木の舟に皆さん乗って宇治川をどんどん、どんどんダムの方に向かって、ダムはまだ建設されておりませんで、その頃は、これからダムが出来るんだということを伺いましたが、そのダムの方に向かって宇治川を上ったんです。美しい美しい青空の日でございまして、その時は確か四月頃だったでしょうか、山桜が咲いておりまして、「あら桜が咲いているわ、早いのね」なんて言った覚えがありますから、今も忘れられないのです。あの時見た水の青さは一度っきりで、それから毎年宇治に来ましてもあんな青い宇治川を見たことはございません。
この節の宇治川は水も減りましたし、あんな青い宇治川見たことございませんが、私も、「飲みたいくらいだ」って言いましたほどに、美しい青い水の中を遡って行きますと向こうの方に大きな岩がちょんちょんちょんと水の中にございまして、その岩にぶつかった水がですね、真白な泡を吹いてそれはまあ私、絵の中を通っているように美しい宇治川だと感嘆したものでございました。そしてそれを見ながら舟の中で私が、「まあ綺麗な青葉だこと、こんな綺麗なところを谷口先生にお見せしたいわ」と言いましたんです。そしたらついて来て下さった方達が、「是非谷口先生にもお見せしますよ」と申されました。私は「本当にいいとこね、宇治って。宇治っていいとこねえ」と私はもう繰返し感嘆しておりました。
そしたらそれが誰から伝わりましたか、お山の奥様は宇治が大変お気に入ったというようなことが伝わりましたんです(笑い)。そうしていますうちに、今は亡くなりました谷田國太郎さんのお知り合いの福田さんていう方が、自分の持っている地所を売りたいと言われたが生長の家で買いませんかと言って来られました。その時分は物価の安い時代でございましてね。戦後何年位だったでしょうか。福田さんの仰る値段では、本部は一遍に支払い出来ない位に本部としてもお金のない時分でございましたから、一年半以上月賦でここを買ったと思います。
そしてここを買いましたら、ちゃんと家も今私が泊まっておる家が一軒付いて居りましたし、その時は、福田さんは十万坪と仰っておりましたけれども後で実測しましたら七万五千坪だということでございましたが、兎に角、生長の家としては初めてこういう広い所を手に入れまして、福田さんがお金にかまわず作ったような御門から入る所の大きな石の垣だの、素晴らしい北山杉が六百本とか八百本とかあります。この辺ずっと素晴らしい所で、みんなとっても喜んで次第にこうして山を崩して宝蔵神社を建てたり幽斎殿を建てたりして、どんどん発展して参りました。
これも私、お稲荷さんのお蔭が大いにあると思います。昨日も雨のしみじみと降ります中で祭式に列席しておりまして、私はこのしみじみとした雨を見るにつけて勇子さんが乳母車の中で喜びの涙にくれたのを思い出したんでございます。
発展の陰にー勇子さんの信仰
私共がこうして発展致します陰には、その勇湯の勇子さんという人の深い深い熱心な信仰心が発端となって、そして寒い二月の初めに、自分が何の儲けにもなりませんのに遥々と伏見まで私を誘って行って、そして稲荷信仰を勧めて下さった勇子さんの熱意。そして私が何ヵ月かしら、あの方が住吉におられる間「生長の家」を無料であげておりましたことが、あの方の御主人が、毎晩家にいなかった人が、ああして男として体面が悪いであろう乳母車を引いて女房に町を見物させて歩くというような、なりふり構わず女房を喜ばせたいという人に変わったということが、やっぱり(拍手)、創刊号をはじめ次々の「生長の家」の影響だと思うのでございます(拍手)。
そして私は勇子さんにお別れして東京に出ましてから六年位してまた再び神戸へ参りました折に、元の住吉に住んでいた家、御影に住んでいた時の家、梅の木に住んでいた家、あの阪神間で住んでいた家を一軒毎に私が参りまして、「お久しうございます」という挨拶をしてまわりましたら、その時に近所の、昔近所だった人に聞きましたら、「勇湯のおかみさんは、故郷へ帰りたがるので丹波だったか丹後だったか忘れましたが、なんでもあの辺でごさいましてね、御主人が勇子さんを国へ連れて帰りました」ということをお聞きしまして、それから後はもう消息が分らなくなったんでございますが、私には永久に忘れ得ぬ勇湯であり、勇湯の勇子さんなんでございます。
一人の女性の稲荷信仰が、こういう風にして私共に影響を及ぼして、今日こうして盛大な生長の家になりましたことには、一端のお蔭が、勇子さんのお蔭があると思って皆さんにお話致しました。有難うございます。(拍手)
(「聖使命」紙昭和四十九年十一月十五日号より) |