『 宇治だより 』  宇治を愛する人  

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『宇治だより』 第46  平成4年10月1日 

  私と宇治
   生長の家宇治別格本山 参与(当時) 藤原 敏之


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人間の運命や環境が想念や言葉通りに実現するものである
ということを身をもって体験しましたので、
感謝をこめて書いてみたいと思います。

私は日本生命という会社に勤務しておりました頃、
転勤で全国各地に住みましたが、
老後の永住地をどこにするか考えておりましたとき、
静岡に赴任し、気候風土物産等、すばらしい環境に魅せられて、
「晩年は静岡で」と決めておりました。

昭和二十八年から三十一年までの三年間
京都に勤務を命じられておりましたが、ちょうどその頃、
現在の宇治別格本山の土地が生長の家の所有となり、
宇治別格本山建立の運びとなったのであります。

木造の仮道場が出来、先ず練成会が始められました。
昼は山崩しとモッコをかついで土運び、
朝と夜だけ真理の話を聴くという
風変わりな練成会が行われたのであります。
これが有名な献労練成のはじまりでした。

私も京都の伏見区におりましたので、
休暇を利用して参加しては信仰の深化に努めたのであります。

宇治はその字の示すように、宇宙を治めるところという意味で、
日本国の中心部に位置し、名所旧跡も多く、
風光明媚並ぶべくもない程の美しい所であります。
宇治のすばらしさがわかるにつれて、
「老後は静岡で……」と決めていた想いが一転して、
「老後は宇治に住みたい」の想いにいつの間にか変わってしまったのであります。

昭和四十年会社を定年退職、本部講師を拝命し、
富山・石川両県の教化部長を経て長野県教化部長となり
教化活動に専念しておりました時、
故田中忠雄先生の選挙活動で飛びまわっていた時、
車が雪道でスリップして動かなくなり、降りて押していたところ、
すべって足の膝を複雑骨折し、
手術後六ヵ月間の入院生活となったのであります。

少しずつ歩けるようになり退院しましたが、
私の長期入院の為、後任の教化部長が赴任しておられ、
私の帰るところはなくなっていました。
“そうなることか…”と思っておりましたが、
当時の宇治別格本山の総務であり、
練成部長であられた嘉村俊熈先生が昇天せられ、
空席となっていた練成部長と智泉荘の管理人兼務という辞令を頂戴して
思いがけず宇治へ来ることになったのであります。

こうして私の「老後は宇治で…」の願いが叶い、
本部講師を退いてからは、本山まで車で五分の三室戸に家を授かり、
毎朝早朝行事に参加出来るという世界一の幸せ者であります。
有り難う御座います。

再拝

 

 

 

 


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