宇治別格本山開山由来記

神の深き摂理  
谷口雅春先生は、『生長の家』誌昭和33年6月号の「明窓浄机」に、宇治について次のように書かれている。
「赤坂道場の付近(現在の世界聖典普及協会のわき)に前々から稲荷神社があったが、それが戦災で焼けてしまったのを復興するために稲荷大神の神霊(みたま)を勧請する使命を帯び、私の家内が京都の伏見稲荷大社に御使いしたとき、鳩が、聖霊のように家内の頭に舞い下った。その帰途、宇治の誌友から招待されて公園菊屋という旅館の一室で歓談しているとき、宇治は山紫水明静寂の地で非常に其処が気に入ったのであった。
『聖使命』 紙昭和31年5月1日号には、 「偶然ということはないと教えられているが、宇治別格本山の生い立ちはあまりにも見えざる神の深き摂理の奇(く)しきえにしが歴然としている。

  谷口輝子奥様が京都へお越しになられて、お時間の余暇に予定のない宇治川の新緑にひとときをお過ごしなされたのは、昭和27年の晩春の頃、そして宇治別格本山の歴史もこの時から始められたのである。そのとき宇治川の清流をのぼる舟の中で奥様は 『いいとこね、先生が来られたらお喜びになるでしょうに』 とお話しいただいたお言葉の響きは、遂に生長の家宇治別格本山の永遠のいしずえともいうべく、印象的にこだまして、早速その年の京都の御講習会を臨時に宇治へ、そうして谷口雅春先生に喜んでいただく企画となって実現したのである。
ほんとうに奥様の言葉がなければ宇治で講習会を催すなど思いもつかぬ夢物語なのだった。なぜならその頃宇治市は誌友会場が一カ所、本部講師が巡講しても僅か五、六十名がやっと集まる程度だった。幹部の一部にもそのことをうれうる人すら出て来たが、何か自然に計画は進められ、とうとう宇治市公会堂に臨時張出し、席までも溢れる大盛況に終了することができたのだ。
さてそのとき谷口先生の御宿に当てた処こそ、宇治でも最も幽邃(ゆうすい)の地であり且つ、大正年間より宇治を訪れる公式賓客の応接の場として使用されていた福田山王荘であり、それが唯今幾多の練成員の奇蹟的体験が続出している宇治別格本山その地だったのである」 と書かれている。

谷口輝子先生がはじめて宇治に来られたのは、昭和27年4月28日であった。


福田山王荘の門 (現在の智泉荘の門)

火の玉の活動
「こんな綺麗なところを谷口雅春先生にお見せしたいわ」とおっしゃった谷口輝子先生のお言葉に、誌友の人達は協議し合った。 “谷口雅春先生をお呼びするには、ただ見物においで下さい、といっても先生はお見えにならないだろう。しかし、宇治で講習会を開くことになれば……”
そこで谷口雅春先生にお伺いをたてると、まもなく、
「秋の京都講習は、人が集まるようなら宇治にしてよろしい」
というお言葉をいただいた。
しかし、講習会を宇治で開くことは、受講者を集めるうえにおいて至難のことであった。今まで誌友会場が一カ所で、本部講師が来てもせいぜい五、六十人しか集まらない宇治で、谷口雅春先生の大講習会を開くなどとはとんでもないことだった。
「人が集まらなかったらどうする!」
という反対の声が初めのうちは幹部の中にあった。しかし、
「やればできる! 神の子の無限力できっと成功させましょう」
ということになったのである。
この “至難な計画” を成功させるために、地元の誌友の人々も火の玉のような活動を開始した。 “われ祈れば天地こたえ、われ動けば宇宙動く” との信念で、講習会当日までの三カ月間、京都教化部で集団早朝神想観、祈願を行なった。毎朝一時間余りも京阪の一番電車にゆられて早朝神想観に通い、受講券の頒布に活躍した人も沢山いた。
これらの勢いあふれる運動は、伏見区・宇治市およびその周辺に、新たに二十五カ所もの臨時誌友会場をつくっていった。毎日毎日メガホンをもって街頭に立ち、宣伝をしてはその臨時誌友会に人を集め、生長の家の素晴らしい話をした。
「この生長の家の総裁谷口雅春先生が来られるのだから、是非参加を……」  
と呼びかけた。誌友会場は宇治地区の誌友の願いの強さと情熱によって、いつも盛況をきわめた。それは、講習会に1600名の受講者を得る力となり、生長の家の教えを宣布するのに大いに役立ったのである。
講習会は、昭和27年9月13日、14日の二日間にわたって行なわれた。会場は川東の宇治市公会堂である。会場にあふれた人のために張出し席を設け、受講した人の数は1600余名にのぼった。これは生長の家としても、当時としては画期的なことであったし、また宇治市としても初めてのことだった。この日、宇治市長山崎平次氏(当時)はじめ市会議員も全員この講習会に参加し、驚いた。受講者の多いことに、その受講者が「ありがとうございます」と合掌する敬虔な姿に、その明るい雰囲気に、ただただ感嘆したのだった。
谷口雅春先生の御講話の内容は、「人間神の子」 「今即久遠」 「天地一切のものと和解せよ」 という生長の家の基本教義から日常生活の具体的なあり方を説かれ、深く魂を魅了する真理の御法話であった。

「宇治別格本山」の名前をいただく  
  この講習会のとき、谷口雅春先生のお宿にあてられたのが、現在の生長の家宇治別格本山の智泉荘の前身福田山王荘である。
この山王荘は、かつて大阪の北浜で福田将軍といわれた故福田政之助氏が、大正十年頃のその全盛時代に、当時として数百萬の巨費を投じて建設したもので、極めて良質の水を山中の水源地より濾過装置を通じて引き、庭園は奇岩、あるいは珍しい石像、燈籠等を配し、鬱然と並ぶ北山杉には一本一本水と肥を注ぐ管を具え、風致を害しないように電線はすべて地中に埋めるなど、まことに風雅の限りをつくしたものであった。大正十一年五月二日、英国皇太子が宇治を訪れられたとき、この山王荘で、休憩・昼食されたという記念碑がある。


英国大使記念碑(エドワード8世)


智泉荘の庭園をご覧になる谷口雅春先生御夫妻

ここにお泊まりになった谷口雅春先生は、 「ここを買ってはどうか」  と言われた。のちにいよいよはっきりした御指示があって、谷田國次郎氏 (当時本部理事、後に宇治別格本山の初代常務理事)が中心になって具体的な買取り交渉に入ることになる。
この山王荘を買い求めるにあたっては、法律に明るい谷田國次郎氏の「今から思うと最後の誠魂をかたむけたひたむきな努力」があった。また、交渉にあたっては、地元宇治市長山崎平次氏、宇治商工会議所会頭辻利一氏をはじめ、同事務局長岡村彦三氏、宇治市会議長小山元次郎氏等、宇治市の有力者の協力を得、また福田氏の顧問弁護士安藤舶F氏も生長の家の古くからの誌友で、谷口雅春先生のためなら、と非常に協力された。
富豪の名園にして由緒に富む山王荘を買い求めることはなかなかむずかしく交渉もはかばかしく進まないものである。しかし、各方面から意外なほどの協力があり、ことは順調にすすんだのであった。これは、生長の家大神の御心が宇治の地に具体的に顕現した証しともいうべきことで、いかにこの地が神霊の御加護を受けているかということを感ずるのである。

福田山王荘 (現在の智泉荘)

「宇治別格本山」という名前は、講習会二日目の早朝、谷口雅春先生がこの優雅な庭園から山王荘の奥域を歩いてまわられたとき、
「ここに生長の家宇治別格本山を建てようと思う」
と指さされた場所こそ現在宝蔵神社本殿の建てられている場所であった。
宇治別格本山の初代宮司であった故嘉村俊X氏は、谷口雅春先生が “宇治別格本山” と初めてお言葉にされたことを聞き、
「其の当時、宇治に何が出来るかわからない時で別格本山の意味がよくわからなかったが、昭和三十年一月六日、本部に於いて開催された正月の講習会で “宇治に宝蔵神社を造り生長の家所縁の霊を祀ることとする。生長の家で霊の祭りをする所は宝蔵神社一カ所とする。他では祀らない” と谷口雅春先生は仰せられた。ああ、そうであったかと思った。この時初めて別格本山という名前がふさわしいものになったと思われる」
と当時を回想している。
なお、「別格本山」と聞いて「本山」もないのに「別格」とは? と疑問に思った人もあったが、昭和五十三年十一月六日、生長の家総本山が建設されるに及んで、ただただ谷口雅春先生の深い御心を感じた人は多いのである。

聖霊が天降る
 昭和二十八年は、この交渉と建設の下準備ともいうべき年であった。
この年の春、敷地の測量を担当していた故四方郎(しかたよしお)氏(当時、一級建築士、四方設計工務株式会社社長で生長の家京都府連合会副会長、のちに宇治別格本山常任参与)が、測量のため、午後四時頃京阪電車で宇治に向かう途中のことである。急に車内が騒々しくなった。
 「火事だぞ!」 「あっ! あんなに赤いぞ!」
と話し合う人声に、四方氏はびっくりして窓越しにその方角に眼を向けた瞬間だった。
 彼方の赤い火柱が波打っているようなその箇所へ、天の一角から飛行雲が直立したような、えもいえぬ光が、急にサァーと天降った。実に天降ったと思われるほど厳粛妙々として落下したように見えた。その方角は、まちがいなく生長の家の別格本山として交渉中である福田山王荘だった。早速福田山王荘へ連絡を入れたが、別段何事もなかったとの返事だった。不思議なる幻覚 ―― されど多くの人々が現実に見たその火柱である。
 この当時のことを直接四方氏にたずねてみると、 「当時京阪の桃山御陵前という駅を出て六地蔵に向かう中間あたりでした。最初に 『 山火事や 』 といったのは、向かい側にいた夫婦づれの乗客でした。見ると真っ赤な炎が燃えているんです。ちょうど生長の家のマークの周囲の炎のような形でね。その炎が大きく二回ゆれて下に降りたんです。そのあと白いけむりがゆらゆらゆれて、それが上から下まで同じ幅なんです。不思議な神秘な感じに包まれて、当時、京都の西日本教化部におられた八日市屋二三雄さん(故人、元生長の家理事)にお話したら、『それは聖霊が降りたんや。先生に聞いてみよう』 ということで、その夏、山王山で林間講習会が行なわれたときに機会を得て、先生におたずねしたら、将に 『それは聖霊が降りたんだよ』 とおっしゃったのです」 ということである。



『宇治だより』第14号 昭和58年7月25日の記事

谷口雅春先生は、この荘厳にして神秘な四方氏の体験を次のようにお示しになっている。

 唯今、宇治で宝蔵神社の設計をしていて下さる四方さんは、宇治の本山敷地がまだ決定していないで交渉を進めている最中に、「山火事か」 と思う焔のような霊光が今、宇治道場の敷地になっている地点におりたのを見た体験を発表されたが、続々として上記のような奇蹟的な体験談が出るのは、生長の家の説く真理がすぐれているのはいうまでもないが、此の宇治本山の地はまことに聖霊天降って衆生教化の中心地としていたまうからであるということが推察されるのである。
(『生長の家』誌昭和三十三年六月号「明窓浄机」より)




鳥瞰図(ちょうかんず) 本間ケイ子作


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