全国流産児無縁霊供養塔


檜造りの供養塔
 昭和三十六年八月二十日、宇治別格本山の一隅に檜造りの「全国流産児無縁霊供養塔」が建立された。この時、谷口雅春先生は日本全国の人口流産児の霊を招霊されたのである。
「人工流産児招霊鎮魂之詞」の冒頭にしるされている、
〝人工流産にて不慮の厄に遭ひ現世を去りし日本全国の童子童女の霊に告ぐ〟
と三度くりかえして高唱されると、参列者一同、谷口雅春先生の御愛念の深さに涙が頬を伝わった。
 谷口雅春先生が、「人工流産児招霊鎮魂之詞」で全国の人工流産児の霊を招霊されている最中に、一部の人は赤ちゃんの泣きさんざめく声とそれが次第にしずまっていく声が聞こえたという。



本供養塔
  やがて昭和四十年十月十四日、これまでの檜造りの供養塔にかわって御影石の供養塔が建立され、谷口雅春先生による「入魂の儀」が行なわれた。新しく建てられた塔は瀬戸内海の大島(岡山県)に産する石で「全国流産児無縁霊供養塔」と彫まれ、さらにその塔の上に慈母観世音像が安置された。この像は福岡市の仏像彫刻家国広石峰氏の作で、寄進者は鹿児島市の小園平右衛門氏である。
  この25トンの大きな石を岡山県からはるばる運んできて宇治の山上に安置するまで、一人のけが人もなく何の事故もなくきわめて順調に運ばれたが、これはふしぎな気がすると運搬に当った業者が言ったという。切り出したままの大きな石は、現在供養塔の建っている場所できれいに削られ、形がととのえられて文字が彫まれた。

新しい供養塔の入魂式の模様を谷口輝子先生は、次のように記されている。

  紅葉にはまだ早い十月十四日、宇治の空は薄ぐもりであった。第一日目の講習終了の四時から、全国流産児無縁霊供養塔入魂式が行われた。塔の上には慈母観世音が、真実の母にも勝してやさしく立って居られた。
 式がはじまろうとするしばらく前から、音もなく霧雨が降って来て、地上はしめやかにうるおっていた。人々は 〝清めの雨か〟 と言ったり 〝流産児の涙か〟 と言ったりした。
 白い上着に水色の袴をつけられた夫が階段を降りて行かれると、そこには白い花緒の下駄が揃えてあった。 袴姿の一青年が進んで来て、夫に長柄の傘を差しかけた。渋い朱色の大傘のもと、静々と塔に向かって進んで行かれた。赤い傘、白い着物、水色の袴の色彩は、暮れかかった小雨の中に、神々しくあざやかに浮かび上がっていた。
 祝詞をあげ、玉串を捧げて帰って来られると、もう雨は止んでいたが、次ぎに私が玉串を捧げて進んで行くと、赤い長柄傘は矢張り私にも寄り添って来た。
 礼拝して私は、高い高い塔の上を見上げた。慈母観世音の優しくて威厳のある御眼が、広い境内を見渡して居られるようであった。その右手には愛らしい嬰児を抱かれ、その左手には一本の白蓮華を持って居られた。私はまた雨上りの道に敷かれた板の上を、注意しながら大拝殿まで帰って来た。夫の式服に合わせて染めた、私の水色ぼかしの着物は、少しも汚れることなく済んだ。
(「白鳩」誌昭和四十一年新年号「蓮華を讃える」より)


慈母観世音

翌昭和四十一年、谷口雅春先生は 「生長の家」 誌の 「明窓浄机」 欄に
つぎのようにお書きになった。


 迷っている霊を救済してあげれば、霊界の迷いの霊波を現実界の人々が受信する数が減り、迷霊の放送霊波を受像又は受信するために起っていた病気が頓に減るものなのである。
  嘗て日本国内の小児麻痺の発病者が一年間に二千名を超えるというとき、ソ連製の小児麻痺性ワクチンを子供に服用せしめることが行われた。恰度その年、生長の家では全国人工流産児之霊供養塔が建立せられて、遍く日本国内の人工流産児を招霊して供養する祭式が行われたのであるが、その時から急に小児麻痺患者の発生が激減したのであった。
  その小児麻痺患者の激減の原因は、生ワクチンの服用にあるのか、流産児の霊を招霊して聖経を供養して、悟りをひらかしめて、迷いの霊波を現実界に送らせないようにしたのによるのか、明瞭ではなかったけれども政府や医界では生ワクチンの効果であると発表していた。私たちは、その原因の一半を流産児の霊の供養にあると信じていたのではあるけれども、功を争うのはイヤであるから全然反論を唱えないで、唯、毎年、流産児の霊祭をつづけていた。
  昨年になって流産児供養塔が古くなって、その檜材が腐蝕して来たので、石材をもってその供養塔を宇治に新たに建立し、その上、に子育て観音の像を安置して流産児の守護の霊として祭祀したのであった。
  ところが、最近私がラジオ放送をきいていると、この二三年来小児マヒ ・ ワクチンを毎年飲用することを忘れた人が多いのかトンと服用する子供が少くなったにもかかわらず、毎年小児麻痺患者の発生は更に漸減して今年の如きは僅か何十名という程であったが、服用を怠ると又流行するといけないので、今後は大いに生ワクチンの服用を奨励しなければならないと考えているというようなことが報道されたのである。
  この二三年来、生ワクチンの飲用が忘れられているのに、小児麻痺患者が、尚更減少して、僅か何十名という少数だったというのは、どういう理由だろうか。小児麻痺生ワクチンの効果は一年だといわれているのであるから、その発生数の減少は決して生ワクチンを三年も前に服用した効果の持続とは判断する訳には行かないのである。ワクチン以外の小児麻痺減少の原因を探してみるとやっぱり、人工流産児の霊を供養し、それに聖経『甘露の法雨』を読誦して悟りをひらかしめた結果、迷いの病念を放送して来なくなったものだと判断するほかはないのである。
(「生長の家」誌昭和四十一年十月号「明窓浄机」より)

 

昭和四十六年十月の秋の供養祭について、谷口輝子先生はつぎのように
お書き下さっている。

 十五日は、宝蔵神社の秋季大祭や精霊招魂神社の祭りが終わって、その日の夕方には、全国流産児無縁霊供養塔の前に集って供養の営みがなされた。大テントを幾つも張って、その中で椅子に掛けている人々、数千の信徒たちは玉砂利の上に筵を敷いて坐っていた。
  供養塔の前に八足台を幾つか置いて、その上に数多くの牛乳瓶が並べられ、その左には、子供の好きそうなお菓子が山と積まれていた。夫に私はささやいた。
「沢山のミルクですね。赤ん坊のお祭りらしいですね。赤ちゃんたち喜ぶでしょう」
祭りの行事が進行し、祭司が祝詞をあげ終った時であった。ふと眼を上げると、供養塔の背後の杉山の上から、羽音もさせず、静かに舞い降りて来た鳶の群れがあった。数えて見たら十羽であった。私は幼い頃から鳶は見なれていたので、その飛ぶ姿ですぐ鳶と判ったが、どうも鳶としては少し小さ過ぎると思っていたところ、私の背後に掛けていた誰かが、「あれは鳶の子供です」 と言われた。私はすぐに夫にささやいた。
「鳶の子供ですって。私は鳶の子供は見たことありませんわ」
「流産児の霊が鳶の子供の姿をして感謝に来たのだよ」
と夫は言われた。可愛い鳶の子たちは、供養塔の上空をぐるぐる舞っていたが、やがてまた杉山の彼方へ姿を消した。
子供の供養をしているところへ、子供の鳶ばかりが集まって来るとは、何となく神秘な感じを受け、意味深いものと考えさせられた。
赤ん坊が鳶の子供の姿で現われて、御礼を言いに来た。本当にそうだと嬉しいと思った。
  親の無知のために、神を知らなかった親のために、不自然な手術を受けて殺された子供たち、哀れな哀れな子供たちが、御教によって救われ、天国で楽しい生活をしていることを思うと、おのずから微笑が湧いて来る。
(「白鳩」誌昭和四十七年新年号「〝そのまま〟の美しさ」より)







©生長の家宇治別格本山