神性開発と献労

神性開発と献労 
   昭和二十九年九月十一日から二十日まで、この宇治修練道場において第一回神性開発練成会が行われた。徳久克己講師が東京の飛田給道場から練成責任者として派遣された。以後毎月十一日から二十日まで行われてきた練成会は、今日までつづいているが、特に宝蔵神社が造営されるまでは、はげしい 「献労」 を中心としたものであった。
   昭和二十九年に建てられた本山修練道場は本山敷地の中心にあり、現在宝蔵神社の建てられている場所は小高い一つの山になっていたのである。この山をくずして、新しい道場敷地(のち「宝蔵神社の神域」にすることになる)を、練成会参加者の献労によって造成しようというのである。
   聖霊天降る霊地とも聖地とも呼ばれる生長の家宇治別格本山では、数えきれないほどの人々が無我献身することで、奇蹟的な体験を得て救われてきた。特に宝蔵神社の神域の整地が行われる初期、約五年半の間は山をくずして整地にする激しい献労作業を中心とする練成会であった。
   すべてを神にささげ信仰の神髄にふれる献労による練成会は、谷口雅春先生の御言葉がもとではじまったのである。徳久克己生長の家長老は、当時の思い出をこのように記している。

  「谷口雅春先生のお伴をして、はじめて宇治へ行った時のことですから、随分古い話です。私達の歩いていたのは山の中の細道で、それは右側は急な小高い丘で左側は急な三メートルほどのガケがあり、その下が狭い水田でした。その向こうは生長の家の持物でない急な山があり、とても道場を建てるような広い場所ではありません。
『先生、大きい道場を建てるような広場はどこにもございませんが……』
とお伺いしますと、先生はいとも簡単に右側の小高い丘を指さされて、
『この丘を、その田に埋めればいいよ』 とこういわれました。
私はびっくりしました。なるほど丘をけずればそこが平地となり、丘の土を田に埋めればそこもまた平地になるので、そこに両方あわせて広い平地ができるわけです。
この谷口雅春先生のお言葉がもとになり、無我献労することによって無数の奇蹟が実現した、なつかしい宇治の献労練成会がはじまりました」
(「宇治だより」第四号「宇治の思い出」より)

  「飛田給の練成になれていた私は、果して献労による練成会が成果をあげることができるであろうか、という疑問が心の底に湧いてきた。
“先生が仰言ることだから、絶対に間違いない” と信じながらも、私の心底では、
“果たして練成会に来た人々をよろこんで献労作業するような心境にもってゆけるであろうか” という心配があった。

   いよいよ九月十一日から練成会がはじまった。そして、私自身も先頭に立って、男も女も、老いも若きも、みんな一緒に献労作業をしたのである。一日、二日、三日、四日と無我になって働いているうちに何ともいえない、私自身がかつて今まで味わったことのない悦びを味わい、練成にきている一人一人の顔が実に楽しそうに輝き、私の心の底にある疑いはふっとんでしまった」
と 第一回神性開発練成会直後の 昭和二十九年九月二十一日発行の 『聖使命』 紙に、徳久克己本部講師は書いている。



同紙には一面トップにこの宇治の第一回神性開発練成会の記事をつぎのように載せている。
   「最も信仰的雰囲気を持つ練成会が九月十一日より十日間、京都府宇治市塔の川 ・ 生長の家宇治別格本山修練道場で行われた。この宇治における第一回神性開発練成会は、道場建設のため山崩し作業をすることから参加者数が案じられたが、案に相違して多数の参加者があり、しかもそれらの参加者は皆、真に永遠なるものを求めて集まり来たった求道者であるため、信仰に徹した本格的練成会となった。即ち霊も心も肉体も全てを神に捧げるという献労により、信仰の神髄にふれ、神と偕に生くる純粋なる悦びを体得することが出来たのである。
   午前、午後合わせて六時間の献労があり、また夜は徳久講師の『甘露の法雨講義』についての講話が続けられた。献労は山の雑草の刈り取りや道路の開拓等で徳久部長以下老いも女も病人も皆一体になって行われていた。この激しい労働で全員相当空腹を覚えたが、何しろ山の中のことでおやつを買出しに行くこともできず、ジャガイモのおやつの毎日だった。これを見た地元宇治の白鳩会員たちはいたく感動し、それぞれおやつを運びはじめ、練成会最後の頃は食べ切れぬほどおやつが届けられていた」
  こうして無我献労による練成が始まり、すべての人の罪を洗い流し、本来罪もなく病いもない神の子の実相を開顕させてゆくのである。

左端は若き日の故徳久克己長老(当時)

真の信仰の確立
初期の練成会において指導担当した楠本加美野本部講師は、昭和46年3月21日号の『聖使命』紙(宇治練成会二百回記念特集号)に、「宇治の思い出」 と題して、つぎのような文を寄せている。

   「宇治と言えば献労を思い出す。宇治の練成は献労が主であった。献労中に様々な奇蹟が続出した。当時の神誌に次々と掲載されたが、結核療養所から脱出、血を吐きつつシャベルをふるって終にそのまま起き上がった人。 三年間絶対安静でねていた腰椎カリエスの女性が、当時は自動車が道場前迄は来ないので、両側から二人の人に支えられながら道場へ来たが、モッコを運びつつ、そのまま治った人。私も真の信仰は宇治で確立した。

山崩しに命をかけた時、自分の中にある無限力が自覚された。
  宇治練成で献労が主体となったのは谷口先生の御言葉によって練成員の奉仕で山を崩すようになったからである。当時練成とはなやめる者が主であった。 病人とか、老人とか婦人とか、とても山崩しの様な重労働は出来ないと考えられていた。私自身がペンより重いものは持った事がない。生長の家のお陰で健康にはなったものの労働は最も苦手であった。  その私に献労の練成が課せられたのであるから、六時間出席するだけでくたびれた。しかし一度全力を出して山に対した時不思議な力がこんこんと湧いて来た。献労が楽しみになった。多くの人々は私の貧弱な体を見てよくあれだけの力が出て来るものと驚嘆していた。冬は雪の中でも裸でツルハシをふるった。夏も炎暑の下、玉の様な汗を流してツルハシをふるった。 『有難うございます』 の言葉は全山に満ち溢れた。
   整地した後に何が出来るか知らなかったが、山が崩され、谷は見る見るうちに埋められてゆくのを見て楽しかった。現在祖先の御霊をとこしえにまつる宝蔵神社が宇治の地にたてられたが、その時は予想も出来なかった。最もふさわしい建物が出来るのだと信じつつ霊地がつくられていった。
   八年間にわたりあれだけの山を崩して怪我人がでなかったのは不思議なことである。一回は献労中に山崩れがあった。突然 “バッ” と土砂がくずれた。何の予兆もなかった。何人かが土の中に埋められた。体の一部が見える人はすぐ堀り出されたが、全部埋められた人がいる。どこに埋っているかわからないので、シャベルやツルハシを使うわけにはゆかない。全員手で掘った。夢中で一刻も早く掘らねば、窒息して死んでしまう。無事を祈りつつ手で掘っていると、『毛があった!』 と誰かが叫んだ。全員の目がそこに集中した。掘り出されたとたんに、『有難うございます』 と声を出した。 『あ、生きていた』 と歓声がわき起った。すぐかついで道場へはこばれ、医者がかけつけた。 精密な診断によって何の異常もなかった。彼女はすぐに起き出して又献労した。
   後で聞く所によると、顔の周囲に大きな石がとりまいていて土砂を防いでくれた。息をするのに何の不自由も感じなかったそうだ。実に神の守護があったわけで練成員一同感激した。その時は徳久局長が不在であった。徳久局長がいる時は常に祈っている事がわかった。練成の中心者は常に祈る事が最も大切であることも教えられた。
  宇治の山を崩し終った時、伊勢湾台風によって、伊勢神宮の千年来の大杉が大部分倒れてしまった。一年半、伊勢神宮奉仕練成会を実施したのも宇治の献労精神によって出来た。その後橿原奉仕練成会も私が宇治にいる時実施することが出来た」

作業即仏法
谷口雅春先生は宇治別格本山の第一回神性開発練成会について、つぎのようにお書きになった。

 九月十一日から二十日まで宇治別格本山で第一回神性開発練成会が催されました。折柄台風警報の最中でありましたので、台風が来たら無我献労奉仕の作業(唯今、百八十畳の道場完成後、高地を斫り崩して設備拡張のための地均しをしています)が出来ないから台風の襲来のときには終日講義をきいて、台風の来ない間に献労しようと言うので、練成員はいずれも午前、午後ともぶっ通しの献労作業を行った由ですが、無我献労の実践と言うものは、(無我になって神に一致することが宗教体験の最後の目標である)実際偉大なる威力を発揮するもので、最初の第一日は、講義も聴けないで献労ばかりでは詰らないと言うような顔をしていた初めての練成員もありましたが、もう二日目になると無我通神の功徳があらわれて、何とも言えない神我一致の境地に入る者多く、「作業即仏法」と言うような体験が得られ、その後の講義はその心境の裏附けとなりダメ押しとなって、偉大なる成果を挙げ得て、練成員悉く歓喜踊躍の様子であったとの事です。
(「生長の家」誌昭和二十九年十二月号「明窓浄机」より)


昭和29年7月に落成した本山修練道場

献労の功徳と其の原理
谷口雅春先生は、「献労の功徳と其の原理」と題して、次のようにお説き下さった。

 『生命の實相』 や 『真理』 の書を読んで見る。そして人間は神の子であって、無限の自由があり、無限の力があるのだと言うことが兎も角、頭脳でわかったような気がするのである。それなのにどうして本当に人生が明るくならず、生き甲斐が感じられないのかと言うような人たちが時々あるのである。『生命の實相』や『真理』の本を読むことは自分にそれを受け取ることであり、自分にそれを入れることである。生命は出入の息の交換によってそれが現象化して来るのである。受け取ること、入れることだけでは、真理も本当に生きては来ないのである。
  たとい諸君が百万円を受け取ってもただ受け取って自分の懐ろに入れるだけでは電車に乗ること一つでも実現することが出来ないのである。その受け取った百万円のうちから幾らかでも電車賃として支払ったときに電車に乗ることができるのである。  何の力でも現実化されないで、出したとき現実化するのである。しかし出そうと思っても入れてなければ出せない訳である。出すと、入れると、入れると出すとは、陰陽相互の持ちつもたれつである。
  真理を聖典によって教えられても 「与えよ、さらば与えられん」 と教えられても、実際 「与えて見る」 実践をしないときには、その醍醐味は味わえないことになるのである。併しこの実際 「与えて見る実践」 は一人では中々やりにくいのである。「人から笑われはしないか」 とか 「きまりが悪い」 とか 「そんな土を掘って搬んで見て何になるか」 とか、色々実践したくないための口実やアリバイが出て来て、純粋に 「与える行事」 を実践しにくいものである。
  無論何処かで雇われて働く際に仕事を真面目に 「与える」 ことはできるが、月給や日給を貰う結果それは労力の売買になっていて、純粋に 「与える」 自覚が伴わないし、従ってまた 「与える」 悦びも伴わないことになる。それでこの 「与える」 愛行を実践するためには、傭われたり給料を貰ったりする条件を伴っている場合には、純粋に 「与える」 悦びを味読することはできない。
  そこで一人でやるのはきまりが悪い ―― という条件を乗り越えて多勢で勤労奉仕をする。しかも御礼や給料を貰わないでむしろ自分が食費を持参し、道場の維持費なども支払った上で、勤労を奉仕的に与える実践をするとき、本当に 「勤労を純粋に与える」 悦びが湧いて来るのである。
  森田正馬医博のノイローゼの作業療法などは、これは宗教ではないが、それが治る理由は、宗教の勤労奉仕と同類の原理によるのであって高価なる医療費を支払わせられながら、何一つ薬をもらう訳ではなく、長い廊下を拭かせられたり、庭の落葉やホコリを丹念に拾わせられたりしているうちに病気が治るのである。

   生長の家宇治練成道場は、山林の広い勤労奉仕の 「場」 があるし、みずから食費を持参しながら、信仰を同じくする人が勤労奉仕の歌や、使命行進曲を歌いながら、群衆で勤労作業をするのであるから、其処に生命の解放が完全に行われ憂鬱やノイローゼが吹っ飛んでしまうのも無理はないのである。この写真は、その愉快な勤労奉仕の実情を撮影したもので、力を出し切るよろこびの感謝が実によくあらわれていると思う。

(「聖使命」紙昭和三十一年七月二十一日号より)

聖霊天降っている聖地
   谷口雅春先生が御自ら筆をおとりになり、宇治練成会の体験を纏めて発表されたものは圧巻である。「生長の家」誌昭和三十三年六月号の「明窓浄机」に10頁を費やしてお書きになった。その一部をつぎに掲載する。

 昭和三十三年三月二十一日の研修会での体験発表の時間に、奈良県北葛城群当麻村大畑の寺田喜代子さん(23歳)が体験発表された。寺田さんは富裕な農家の生まれであるが、幼いときから両親が常に 「男でないと仕事が出来ない。女では仕方がない」 と口ぐせに言われるものだから、「男になりたい」 願いが潜在意識に深く根をおろした結果、言語動作等ことごとく男のように粗暴になり服装などもほとんど男としか見えないような服装をつけるようになり、馬などを扱うときにもほとんど全く男と同じような態度、語調でどなりつけるようになった。
   年頃になっても、その男性的性格がいよいよ甚だしくなるにつれ、両親が心配して、「もっと女らしくなれ」 と言うものだから、「幼い時には女では駄目だ。男でないと、仕事はできん、と口癖のように言っておきながら、いまさら 『女らしくなれ』 とは何事だ」 ―― と大いに憤慨して両親を恨み両親に反抗するようになり、酒は毎日五合? くらいは飲み、煙草は毎日三十本以上ないと足りないように心がすさんでしまっていたのであった。
  ところが縁あって、宇治の生長の家修練道場に来て、諸先生の話をきき、更に楠本加美野講師の親不孝が治った体験を交えた話をきき、神想観中に 「お父さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます」 と心で念じていると、今までの親不孝な自分についての悔恨の情が沸々とたぎるように沸き起こって来て、泣けて泣けて仕方がなかった。   それから、「祈りの間」にはいって祈りながら、存分に泣いたのである。
  「祈りの間」を出て、山に上って見ると、そこにひときわ大きく輝いている星が自分を見詰めているように感じられた。その星を見ていると、それが母の慈愛深い眼を思い出させた。「あの星は母の眼なのである。母は私を愛して私がよい娘になってくれるようにと常に私を見詰めていてくれるのである」 と思うと涙があふれ出て来た。今まで母に反抗してすまなかった。涙にかすんだ眼に、その星がぼんやりとなり、その星が母の顔になって見えるのである。彼女は大声で 「お母さん!!」 と叫んだ。この声が奈良県にいる母に通じればよい…… 再び彼女は大声で 「お母さん!!」 と叫んだ。大 粒の涙が彼女の眼から滝のように流れ落ちた。
  彼女は母親に心をこめて今までの不孝を詫びる愛情の手紙を書いた。それから幾度も幾度も母親に手紙を書いた。そして此の体験談を発表した最後に、その母から来た 「喜びの手紙」 を泣きながら彼女は読みあげたのであった。
宇治市の生長の家別格本山の研修会では親孝行に転向した実例がずいぶんたくさん発表された。そのうちのもう一人は兵庫県西宮市浜甲子園の石井晶君(二八歳)である。
晶君の父親は運悪く次々に妻と死別して四人も妻を迎えたのである。そのたびごとに息子としての晶君は、親を憎み世をのろい、すべて暗黒面を見て、人生がただもうまっ暗に見えていたのであった。そして全身の病を得て働けなくなり、長い病床生活を経て、死んでもよいと思っていた。
  ところが縁あって尼崎の石原講師の指導により宇治の練成会に参加することになった。最初はあまりその講話にも興味を覚えなかったが、練成の何日目かに楠本講師の親孝行についての話をきいたときにピンとこたえるものがあった。しかし親に感謝してみようと思っても、親の不快な顔ばかりが浮かんで、どうしても感謝する気持ちが起こらないのである。それで吉田武利講師にそのことを訴えて相談すると、「祈りの間」に入って神想観をして親の顔を思い浮べて「お父さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます」と熱心に念ずるがよいと教えられた。
  最初「祈りの間」に入って、父母の姿を思い浮べても、それは恐ろしい顔で叱っているような形相ばかりが眼に浮んで、もう神想観をやめようかと思ったことが幾度もあったということである。しかし、それを押し切って「お父さん、お母さん、ありがとうございます」と繰返し念じているうちに、自分の眼の裡に浮ぶ父母の顔がやさしい愛情の顔にかわって来たのである。その愛情の顔を見ると、晶君は嬉しくて嬉しくて、沛然として涙があふれて来た。そして本当に心の底から 「お父さん、お母さん、ありがとうございます」 と感謝できることになったのである。
 この体験談でもわかるように、息子というものは、本当は親を愛しているのであり、愛せられたいのである。しかも或る機会に叱られたことなどから、「私の親は私を愛していないのだ」 と思うようになり、心の中に、「自分を叱っている両親の姿」 ばかりを描いているのである。その心の姿が両親に反映して、現象的には依然として、自分につらく当る父母を見るのである。しかしその現象の姿を 「祈りの間」 で否定し切って、「実相の父母」 の愛情に満ちたにこやかな温顔を思い浮べて 「ありがとうございます」 と感謝の語をのべていると、実相の愛深き父母の姿が心の眼に見えて来るのである。
そして心で父母を 「愛情深き者」 と見得るようになると、現実の父母もまた実際に 「こんなにも父母は私を愛していたか」 と気がつくような愛深き姿にあらわれるのである。

 同じく宇治の研修会で発表された体験談の一つには、その状態がハッキリ説明されている。それは妙見達郎君の体験談である。

 神戸市須磨区平田町二丁目(当時)の妙見達郎君は金持ちの息子であった。親は手紙一本出せばすぐ必要な金額を送ってくれる便利な銀行だ位に考えていたというのである。中学一年から、酒と女と賭博、ヒロポンの注射などに身を持ちくずして、しまいには親の家や畠までも売り飛ばし七年間におよそ四百万円を浪費したというのである。
 初めは宗教などとても信じられなかったが、ともかく、宇治の修練道場へ来て講話をきき、「祈りの間」 で父母に感謝の神想観を実践しているうちに、自分の父母を見る心が変って来たのである。すると、母から実にやさしいやさしい愛情のこもった手紙が来た。その手紙を妙見達郎君はズボンの下の丹田のようなところから探り出して、「私はこうして母からの手紙をお守りにしているのです。これを朗読いたします」 と言って読みかけたが、感きわまって嗚咽の声でその朗読は充分聞きとれなかったが、その母の手紙には、「お前をそう言う状態に追いやったのは、お前が悪いのではない。母なる私が悪かったのだ。どうぞ私を赦す宥して下さい」 と書いてあった。
 達郎君はこれを読んだとき、「こんなに愛情の深い母を私は裏切っていてすまなかった」と思って四回も五回も読みかえして、「この手紙をお守りにして、今後、父母の喜んで下さる自分になろう」 と決心したのだそうである。

 宝蔵神社の設計者である四方さんは、宇治別格本山敷地がまだ決定していないで交渉を進めている最中に、「山火事か」と思う焔のような霊光が今、宇治別格本山の敷地になっている地点におりたのを見た体験談を発表されたが、続々として上記のような奇跡的な体験談が出るのは、生長の家の説く真理がすぐれているのは言うまでもないが、この宇治別格本山の地はまことに聖霊天降って衆生教化の中心地としていたまうからであるということが推察せられるのである。 

 宇治研修会で次のような体験を京都市下京区中堂寺北町33の山崎昇さんが話した。
山崎さんは毎月、日課のように宇治の練成に来ているのである。ある日、練成に来てこの人は入浴が好きなので道場の湯殿へとび込んだ。そして下半身に湯をかけて顔を湯槽の湯でぬらして髭を剃る準備にと思ってツルリと顔を湯でしめて、湯槽の中にいる先客を見ると、その人の全身が数日間水浸しになった土左衛門のように赤むけの皮膚の上が、水でほとびて白く腫れた盛り上がったような皮膚になっていて、二た目と見られない醜い全身の皮膚病なのだ。ことに両股から脚部へかけてはその状態が甚だしいのである。その人が 「手拭は湯槽の中に入れないで下さい」 と貼紙してあるにもかかわらず、湯槽の中で、その二た目と見られない皮膚を手拭でごしごしこすっているのである。それを見ると山崎さんは、湯槽に入るのを躊躇したが、半身は既にぬれているし、冬のことで寒いので、やむなくその湯の中に入っては見たものの、心の中に沸々とたぎる憤りのようなものがわいて来るのである。
「その皮膚病は何ですか」 と山崎昇さんはその人にきいてみた。
「これは湿疹です」
「あんた、それを治りたいと思いませんか」
「治りたいので来ているのです」
「それでは私の言う通りしますか」
「治るならどんなことでも致します」
「それじゃ、私はどなりますよ。大声でどなっても素直にききますか」
「はい」
「あんたは父母に感謝がたらん。両脚は祖先をあらわす。一番身近い祖先は父母だ。父母に感謝をせずにその皮膚病と同じような、いやらしい心をしているからそんな病気があらわれるのだ……」
 山崎昇さんは大声でどなっていたが、自分がどなっているのではなく、神懸りしてどならされているようで、どなった言葉は詳しくは覚えていなかった。そのうちに其の皮膚病の男は泣き出してしまったのである。そしてその男はその夜一心に父母に今までの非行をわび懺悔と感謝の一夜をすごした。すると、翌朝になってみると、あのひどかった両股のあたりの皮膚病がカラカラに乾いて一部治っていたのである。それから後、五日間の練成中に、この全身皮膚病は完全に癒されてしまったのであった。
 その人は福井県敦賀の中村さんという人であるとのことである。この 「何者かが神懸りしてどなっている」 うちに相手の皮膚病が治るなどと言うことは、やっぱり聖霊が降り来ている霊地だという感じがするのである。

 私は去年の夏の宇治本山の教修会で、大西知代さんと言う婦人が次のような体験を話されたのを思い出した。
胃癌のような胆石症のような症状で、やせほそって殆ど瀕死の状態になっている母親を、知代さんは肩にかつぐようにして宇治本山までつれて来たら、其処に練成員たちが、道場敷地の地均しに土を掘ったり、モッコをかついだりして献労作業をしていた。それを見ると、今迄瀕死であった母親がそのまま癒えてしまったと言うような体験談であった。
 それは全く常識を超えた無茶なことであるが、その超常識の重労働の献労をしながら、それが治ってしまったと云うのは、ただ事ではない、屹度、フランスの 「ルールドの聖泉」のように聖霊の天降っている聖地だからだと思えるのである。






©生長の家宇治別格本山