宝蔵神社落慶大祭
感動とよろこびの渦
昭和三十五年八月
平等院から宇治川に沿って遡ると、院の御所山の緑に包まれて生長の家宇治別格本山がある。千六百有余年の永き歴史と伝統に育まれ、香り高き文化と山紫水明の名も高き宇治の地は、栄西禅師が明恵上人に伝えた茶の実が広く植栽され、茶業の中心地としての名声を今日まで伝えている。『源氏物語』 をはじめ、『万葉集』や古今の和歌、軍記、浄瑠璃、俳句などの文学にも宇治は記されている。
この緑に包まれた幽邃な山々が清冽な名流宇治川に姿を写す宇治の町に、ただならぬ興奮とよろこびの雰囲気がみちみちていた。
生長の家信徒の霊廟である宝蔵神社本殿および五千人収容の大拝殿が落慶し、八月十八日から二十二日まで、落慶記念の大祭が行なわれた。全国から集まった生長の家の信徒は七千余、そして二十一日夜は、宇治観光協会主催、京阪電車・宇治商工会議所の後援で奉納全国有名盆踊大会が行なわれ、七千余の人出という宇治始まって以来のたいへんなにぎわいを呈した。
「生長の家宝蔵神社落慶記念特集号」と銘うった昭和三十五年九月一日号の『聖使命』新聞をひらいてみると、その紙面のほとんどが当時の宇治での感動とよろこびを描写した、見出し、記事、写真でうずめつくされている。
「府道を『源氏物語』の宇治十帖〝寄木〟の古跡より曲り、『宝蔵神社落慶大祭』と書かれた門をくぐって美しく敷きつめられた玉砂利の上求参道を登ると、サーッと視界がひらける。木々の緑をくりぬいた空間に、真新しい宝蔵神社の大拝殿がぐっとそびえている。
ぞくぞくとつめかけた参拝者の群から『わあーっ』という感嘆の声がもれ、しばしその威容をうち仰いでいる様子。豊かな量感をもった豪華なたたずまいは、『院の御所山』の緑に映えてひときわ美しい」 (『聖使命』紙) 宝蔵神社落慶式参加者の声には、
「一歩足を入れたら、ただもう嬉しくて涙が止まらなかった」
「想像以上の立派さ、荘厳さ、ただ感激」
「まさに極楽の世界、感無量」
「神社と寺院の建築様式が渾然一体となってまことにも万教帰一の精神」
とある。(『聖使命』紙)
落慶式のとき、宇治市会議長脇田政一氏が「宇治には平等院のほかにもう一つ世界に誇るべき名所ができた」と祝辞を述べているが、因に、本殿は藤原後期の建築様式と神道・仏教・キリスト教の三つの建築様式を調和した形でとり入れられた九六・六九平方メートルの鉄骨・鉄筋コンクリート建。拝殿は地下一階・地上二階の寝殿造り。広さは延べ四、三八五・四四平方メートル。地下は冷暖房・変電室・機械室。一階には講堂、参拝者の宿舎、放送室、大食堂などがあり、二階は五千人収容の拝殿となっている。屋根は一万五千枚の銅版でふかれ、地中には地盤沈下を防ぐために長さ九メートルのコンクリート・パイルが三百五十本もうたれている。宇治市では最も立派な建物といわれ、総工費二億五千万円(当時)は、信徒の真心の献資によるものである。昭和三十四年二月二十三日、谷口雅春先生の「鍬入式」が行われてより五百十五日、延べ六万二千二百四十名の人々の手によってつくりあげられた。
参拝者は皆、神殿の偉観にうちふるえ、落慶のよろこびにわいたが、この建物を設計し建設した直接の施工者である四方靖郎さんの感慨もまたひとしおであろう。落慶式に谷口雅春先生から親しく感謝状を贈られた四方靖郎氏に『聖使命』紙はインタビューを試みている。

神社・仏閣建築様式の粋集む
-- すばらしいのが建ちましたね。
四方 いや、もう全く神様のお導きしか考えられませんね。
-- この建築様式は藤原後期の様式が多くつかわれていると言われていますが……
四方 これを設計するにあたりましては、全国の有名な神社仏閣をおよそ二十カ所ほど見て廻りました。明治神宮をはじめ出雲大社、東西本願寺、それに天理教や金光教の神殿までも……。そして三つの設計図を作って谷口先生にお見せしたところ、これが採用になったわけです。
-- 設計や建築の特長といったものは……
四方 できるだけ万教帰一の味を出そうと思いまして、神道・仏教・キリスト教の三つの建築様式を調和した姿でとり入れました。鉄骨、鉄筋コンクリート造りで、しかも和風造りの味を出すように工夫したことですね。あのやわらかい合掌造りの屋根の勾配なんか、鉄筋コンクリート造りとは見えないでしょが。
-- 屋根は屋根、鉄筋は鉄筋で、一流の専門家の手になって出来たとききましたが……
四方 神殿の屋根をふいた人は明治神宮をふいた人ですよ。京都の重要文化財保護委員会の方達が、神社仏閣建築専門の一流の名工を次々に紹介して下さいましたお陰でね。本当に助かりました。
-- それはどういう関係から……
四方 これも考えてみれば神慮だと思うんですがね。私が京都府の嘱託みたいな仕事をしていたもんですからね。三十一年でしたか、法性寺の千寿観音の厨子の修復の設計を文化財保護委員会からたのまれてやったのが、それがすばらしいと認められましてね。そんな関係から欲しい名工を直接に紹介して頂くことが出来ました。丁度落慶式の前に文化財保護委員の方が見えまして、「立派なものが出来ましたね」とびっくりしてお帰りになりました。

宝蔵神社本殿ならびに大拝殿は、建築美からいっても折紙がつけたれたわけである。

厳かに落慶式
八月十八日から五日間、谷口雅春先生、谷口輝子先、谷口清超先生、谷口恵美子先生の御出席のもと行事はとり行われた。落慶式と「盂蘭盆供養大祭」と落慶記念特別大講習会の三部から行事はなり、北は北海道から南は沖縄まで、又、海外からも加えて七千名を超える信徒が参集した。
第一日(八月十八日)は、「盂蘭盆供養大祭」(午前中は修練道場「送霊祭」、午後から新築なった大拝殿で「招霊祭」)が行なわれた。
『聖使命』紙は、第一日の早朝からのもようをこう伝えている。
「カッコーワルツとともに空があかね色に明け始めてくると宇治道場員や長期練成奉仕員たち約百名が旧道場に集まり早朝行事が始まる。昨日まで大祭準備のためどんなに忙しくどんなに疲れていることか。だが誰ひとり寝過ごすものもなく集まってくる。その顔のいかに晴れやかに光輝いていることか。さあ、いよいよ今日からだ。そんな気力の充実が誰の顔にもあらわれている。
やがて午前六時、木の香も新しい本殿および大拝殿では、神官衣を着けた久山、奥平、佐々木、石橋の各祭員により、厳かに潔斎の儀が始められた。と、その時、漸く立ち昇った朝日が森の先端の隙間から、一条、また一条さし込み、大拝殿の屋根にふかれた銅板に反射し、赤く映え輝き、その輝きが次第に拡がり、ひときわ荘厳さを増していった」
第二日(十九日)は落慶式から始まる。午前九時よりお山四先生並びに御孫様御臨席のもとに厳かに行なわれた。全国各地から参集した信徒は、さしも広い千帖敷の大拝殿に立錐の余地なく、溢れ出た人々は拝殿の回廊に、或いは一階の宿泊室や外の樹陰などでマイクを通して拝聴する有様であった。
各新聞社のカメラ陣が式場を包囲し、関西テレビ等の照明が閃光するなか、上空には産経新聞社機が現われて水野成夫産経新聞社長(当時)のメッセージを投下するなど、いよいよ大祭の雰囲気が盛り上がってゆく。
宝蔵神社は単に生長の家信徒の誇りにとどまらず、日本国民はもとより世界人類の誇りになるであろう。誰もがそう思った。
この落慶を記念して盛大に落慶式がとりおこなわれたが、とりわけつぎに掲載する谷口清超先生の「宝蔵神社建設は重大な意義をもつ」との御挨拶は、多大な感銘を参拝者に与えた。

宝蔵神社建設は重大な意義をもつ
本日めでたくここに宇治の宝蔵神社の完成をみるに到りまして、すばらしい殿堂がここに建築されたのでありますが、生長の家の皆様は御存じのように、昭和五年に谷口雅春先生が「生長の家」という雑誌をお出し下さいましてこれが最初は宗教というような形ではなく純粋に精神運動として発足しておったのでございます。そして今もなおその万教帰一というたてまえは変わらないのであって、万教帰一ということはどうゆうことであるかというと、一切の宗教は同じであるということではないんですが、本当の宗教の神髄は一つに帰するということでございます。いろいろの宗教の形式儀式の形態であるとか、建物のいろいろの細部にわたる建築様式というものはいろいろ異っていても、その説いている教えの神髄は一つである。一つでなければならない。それでなければ本当の宗教というわけにはいかないということが、万教帰一の真理であるわけです。これが生長の家の根本の発祥の時の精神であり今もなお変わりない万教帰一の精神でございます。
そういうわけで生長の家の運動は純粋に真理宣布運動として展開してまいっておるわけでありますが、ここに実際に御先祖のいろいろの霊魂をお祭りするというような問題が起ってまいります場合には、具体的にいろいろな形式でお祭りするということになってまいります。神道の方は神道のような形式で、仏教の方は仏教の一定の形式で御先祖をお祭りするということになってまいりまして、霊界と現界との一つの交流という問題が起って来る場合には、どうしても一つの形式がそこに生まれて来ることになるわけであります。生長の家では、仏教の方もいらっしゃるし、キリスト教の方もその他のいろいろの宗教の方もそのまま、御先祖の信仰そのままに生長の家でやって本当にその御先祖伝来の宗教の神髄がよくわかるということになる、これが本当の宗教を生かすところの生長の家であるわけであります。
ところが無神論であった方が生長の家にお入りになったり、あるいは御先祖伝来のいろいろの宗教の形式も自分にはなじめないという方もいらっしゃいまして、そういう方には、生長の家で御先祖をお祀りしてもらいたいというような方も出てくるわけであります。ことに生長の家では、死んだ人だけをお祀りするというのではなて、生きていらっしゃるうちに、その魂は、永遠不滅である神の子でありますから、その生きている素晴らしい聖使命菩薩を礼拝し、かつそれを一定の死後の霊界におけるところの供養をやはり続けてするということになってこなければならないので生長の家独特の祭礼の形式がそこに生まれる。ちょうどそれは生長の家という団体が生命のまとまりをもっている関係上、一家の中においてその一家の中に仏壇のもうけられている間があったり、あるいは神殿のもうけられている部屋など、清浄な部屋が設けられると同じような意味において生長の家の人類光明化の運動という一つの生命体の中において、一カ所そういう霊界の直通するところの場がもうけられてくるということは当然のなりゆきであったわけであります。これは生長の家の団体活動が本当に生命的な躍進を遂げ、そして独立した一家のような形をとってまいりました過程において当然のなりゆきであったわけであります。
そうして宇治の宝蔵の地が実は生長の家全体の運動の霊界と直通し交流するところの聖地として、霊地として設けられていき、それが次第に発展してこのような立派な殿堂の建設となり、礼拝堂の建設となって現れてきたわけであって、これは生長の家団体全体から見るというと、ここは仏間であり神殿であるわけであります。
そういう意義ある霊地におきまして、ここに今回立派な礼拝堂が設けられ神殿が建築されてそして素晴らしい形態がととのって来たということは、生長の家の運動がこれから将来に於てなさねばならぬ大いなる使命があるということの実証であると考えることが出来るのであります。というのは皆様も御存じのように、最近に於ける世界の情勢というものは非常に緊迫の度をきわめ、日本国内におきましても非常な混乱状態が政界に於ても起って来ておるのであります。労働界、教育界を問わずいろいろな問題が山積しているのであります。こういう問題の解決というものは、これは普通は現象的な知恵だけですべてが割りきれると思っていろいろな人々がいろいろ努力をするのであります。けれども、それはどうしても根本的な解決がもたらされない。なぜかというと、人間の生命というものは、肉体がある間だけあるのではないのであって、肉体がなくなって霊界に移行した生命というものとの関連ということが考えられないと本当の人間の救済は出来ないことになるわけである。もし肉体をもっている人間が、肉体が焼き場にもっていかれて、煙や灰になってそれで終わりというのであれば、それは肉体人間だけの考えでいいかも知れないが、そういう人間であれば我々が何のためにこの人生に生きて来たか、何のために素晴らしいこの人間としての生活をやるのかわからないということになって、どうしても永遠の生命を考える場合には肉体を捨てた後の生命のあり方、その本当の悟り、あるいは魂の向上というものを考えていかねばならないということになるのでありますが、現代の政治活動に於ては、あるいは教育活動に於ても、そういうことが全然切り離され、考えられてられていないという状態にあるわけであります。
そういう場合に我々が人類救済運動を進める重大な使命を帯びている生長の家の一員として生長の家の人類光明化運動を本当に霊的な基盤に置いて全世界に貢献する力を発揮していくことを考える場合には、こういう立派な、霊界との直通の場所というものがまず建設されることが、非常に重大な意義をもって来ると考えられます。そしてそういう霊界に於ける加護、霊界からの先祖の加護、これに即応して我々が本当に現実界に於いて正しい信仰の純粋な態度のもとで、政治、経済あるいは家庭、病苦その他いろいろな問題に対して誤りなく日々の生活の中に行じていくということになっていかなければならないわけであって、そういう意味でここ宇治の地に立派な宝蔵神社が建立された意義はまことに重大であると考えるのであります。これは将来の生長の家の動向  将来生長の家がやらなければならない人類的意義に於て非常に重要であって、建築物の完成によってすべてが終りというような、そんなものでないということを我々は改めて銘記し、この偉大なる生長の家の発展とそしてそのすばらしい使命達成のために、前進していきたいという決意を新たにする次第であります。

(『聖使命』紙昭和三十五年九月一日号)

落慶記念特別大講習会
十九日午後  。落慶記念特別大講習会の幕が切って落とされた。新築の大拝殿で十九日午後一時から二十二日午後四時まで、四日間に亘って開催された。
講師は、谷口雅春先生、谷口輝子先生、谷口清張先生、谷口恵美子先生のお山御四方だけという最初にして最後のものである。受講者も宝蔵神社落慶という歴史的行事のためと大祭を兼ねてのためもあって、七千名という四日間の講習では新記録である。落慶式につづき、千帖敷を誇る大拝殿も立錐の余地もなく超満員。回廊、宿直室、はたまた外に出て森の中でマイクを通して受講する多くの人々の姿も見られた。
すずなりの超満員にあまつさえ連日の炎天下  。折角の冷房装置も効果が少なかったが、それにもかかわらずみな一心に受講者は御法語に聴き入っている。
落慶記念特別大講習会の演題は次のとおりである。
第一日目(十九日)
生長の家の発祥と其の本尊及び使命  谷口雅春先生
「今」の哲学  谷口雅春先生
第二日目(二十日)
予言の可能性と運命の形成  谷口雅春先生
世界終末の予言と人類の悲惨の修正  谷口雅春先生
美と法則について  谷口清超先生
罪はないということ  谷口雅春先生
第三日目(二十一日)
愛の尊さについて  谷口清超先生
如何なる病気は如何なる心の影なるか  谷口雅春先生
神とともに生くる道  谷口恵美子先生
男女の使命の相違と家庭調和  谷口雅春先生
第四日目(二十二日)
治病に関する重要知識  谷口雅春先生
他力教と自力教との一致  谷口雅春先生
四十年前の貧窮生活を振りかえって  谷口輝子先生
結語及び補遺  谷口雅春先生
まさに後にも先にもない歴史的な大講習会である。


奇瑞  本殿にのみ雨

 十九日の夕刻五時から「盂蘭盆供養大祭」の本祭がとりおこなわれた。この模様を『聖使命』紙はこのように伝えている。
「雅楽『慶徳』とともに祭員が入場、総裁谷口雅春先生、副総裁谷口清超先生も祭員と同じ白の神官衣に空色の袴を召されて祭場に入場される。式は祝詞、修祓、招神歌を経て献饌される。雅楽『皇じょう』の奏されるなか、宝蔵神社に献饌される。祈願文を奏上する久山祭員の声も深く澄み切っていよいよ荘重。やがて招霊に移る。
四人の祭員とともに神殿に進まれた総裁先生は、生長の家大神、大国主大神、観世音菩薩、地蔵大菩薩、阿弥陀如来の五柱の諸神諸仏諸菩薩を宝蔵神社祭神として鎮座の儀をとり行なわれる。なんという神秘さ。なんという神々しさ。この時、ちょうどこの時、奇瑞が起ったのである。記者の隣りにいた京都の西川さとさんが小さく叫んだ『ああ、雨が』。千葉の井手静子さんもいった『雨、雨』。見ると神殿の屋根にサアッと一条の雨が降りかかっているではないか。まるで雲の切れ目より一条の光が射し込むように、白く眩ゆく一条の小雨が降り注いでいるのだ。勿論雲一片だにない晴天。なんという不思議さだろう。私たちは大祭役員として、或いは取材のため、神殿の最も近い所にいた。だからこの奇瑞を見たのは私たちだけかも知れない。だが、私たちはこの眼で確と見たのだ。魂の奥深くまで刻まれた激し過ぎるほどの強い印象であった」
『生長の家四十年史』には、このように書かれている。
「落慶式につづいて谷口雅春先生御親祭のもとに宝蔵神社祭神鎮座の儀が厳粛に行われた。この儀式中、瑞気みなぎり、谷口先生が入魂の気合をおかけになるや神殿の上に、〝霊雨〟がふりそそいだ」
宝蔵神社落慶の〝霊雨〟を見た長部真知さん(元白鳩会兵庫県連合会会長・宇治別格本山参与)は、その神秘な体験を次のように語っている。
「宝蔵神社の本殿と大拝殿が落慶の運びとなりました時、余り立派なので暫くは呆然と眺めたことでした。その時の総裁先生の御講話は一段と力が入り、本当にお嬉しそうでした。私は接待係で、お茶やお菓子、おしぼりの準備でスピーカーから聞えてくる谷口雅春先生のお声を聴きながら働いておりました。谷口先生の御神霊へのお祈りが始まったので奥殿に向かって窓を開いたとき、金モールの細い糸が霧雨と共に降って来ました。目を擦って錯覚ではないかと思いましたが、本当に降っているのです。青空の下で雨が降る。どうしても不思議で受付けに電話で尋ねてみましたが、雨は降っていないとのことでした。濡れているのは定規で測ったように、玉垣の内だけクッキリと土が濡れておりました。その後余り神秘なことなので口にしないでおりましたが、一緒に見られた接待係の方々が昇天され、今では私一人の神秘な体験として、当時の接待係としての光栄を胸に生かされている幸福の日日でございます」
この儀式のもようは記録映画(16ミリ、カラー)に撮影されているが、撮影にあたった関西テレビ(KTV)のディレクター小川晴孝氏(生長の家の信徒ではない)は、
「一瞬の曇りで、レンズの絞りを変えるひまがなくて、そこだけ色が変ってしまいました」
と、霊雨を見たことを証言している。
これは、特に信仰をもつ者だけにあらわれた幻覚というようなものではないことを証明している。確かに映画では、本殿を写したそのときの画面の色が変っている。
この時谷口雅春先生が奏上された祝詞は、次の通りである。

 

宝蔵神社神殿捧堂の祝詞

 天地の創造主にましまし 神道にては造化之三神とあらはれ 古事記にては住吉大神 また水火津霊の大神とも称へられ 仏教に垂迹しては 阿弥陀 観音 勢至 薬師如来 地蔵大菩薩とも顕れたまひ キリスト教に垂迹しては黙示録にあらわれたる白髪のキリストとも顕れたまひ 時と処と人とに応じて善き御教を垂れ 迷界より悟りの世界に導き給ふ宇宙本源の大神を遙かに拝み奉りて 汝が御教を授かりし信徒達を代表して谷口雅春敬つて白す
ここ宇治川の畔清き丘に大神の鎮宮を創り成し 招ぎ奉りて 大神の御教へを受けしものの内 現世の務を終へ幽世に帰りましし御霊達に御導きを垂れ給はんことを祈願ひ 生長の家信徒同士相集ひ 相計り御殿を創り捧げ奉る 内殿の中央に大神達の鎮ります神殿をしつらえ その左右に紫雲殿と称へる宮在りて 世にて御教を伝へる御業に仕へ奉りたる人々のみ魂を鎮め奉り 更にその左に光明宮 右に宝蔵宮を設けて霊宮聖使命会員並びに信徒達に縁あるものの霊牌を祭祀し奉る これ等諸霊共々に霊界にて御導きを受け大神の御栄えを称へ仰ぎ奉り 人類光明化運動に霊界より挺身せんとするものなり 神橋を渡れば五千人道場あり 人々道場に坐し 大神達を拝し奉り 御教を聴聞し いのちを清むる「いのちのゆには」なり 如何に罪業重く苦海に沈むとも また迷ひ深く暗黒の世にさまよふとも はたまた死の影におびえ恐怖に追わるるとも 一度この「ゆには」に座して御教を受け心浄まり実相を悟りなば忽然として天地開け 太陽の如く光輝く神の子なる自己の実相を見 歓喜と喜びに満ち溢るることを必定なり これこの「ゆには」に於ける御神徳の現れなり これの作りの業は 巧みの長技師四方靖郎にして此の御神殿を大神に捧げ奉らんとして身も心も斎き清めて 一挙一動に大神への感謝と賛美の言葉を籠め 念々誠を尽し 精を極め 愛念深めて修工すること爰に一年余りにして竣工しぬれば 今日の佳き日を選び定めて神祝ぎ 豊寿ぎ 御祭りを仕へまつりて大神に此の御殿を捧げ奉らんとす 庶幾くは御神意も安らかに相嘉納ひ給ひて 今より後は一層に人類光明化運動の道に栄光を弥や増し給ひ これらの諸霊が世界平和に貢献し得て人類悉く道に迷はず争ふことなく清く明き心にて 愈々深く神仏及び祖先を敬い 顕幽相携へて大神の経綸を扶翼することを得るよう導き給へと恐み恐み白す
谷口雅春先生は、この日のことを次のように書かれている。

 宝蔵神社落慶式が終ると、神社の本尊神霊の鎮座式が厳かに執行せられた。
生長の家大神の神示には、「わが神殿は既に成れり、名づけて、『生命の実相』と称ふ」と示されてあり、また「われに神殿は不要である」とも訓えられており、「神は真理のコトバであるから、真理のコトバを載せた本が神殿である」と教えられているのである。それなのに神社を建てるということは神示と矛盾していると考える人もあるかも知れないけれども、宝蔵神社は、信徒及び、祖先の霊廟としてつくられた神社であって、生長の家大神を祭祀する神殿ではないのである。しかし信徒の諸霊を祭祀する限りに於て、諸霊ばかり沢山祭祀しても、霊界の諸霊を悟りに導き給う神霊及び仏霊の降臨がなければ、迷っている霊たちがウジャウジャしているだけで、長くその迷いの状態から脱することができない。そこで導きの神霊の降下を願う為のアンテナたる役目をするための宝蔵神社の本尊神霊の鎮座式を行ったのである。
中央に大宇宙神霊の包括的名称たる〝生長の家大神〟なる神名を書し、古事記に幽界大神と尊称されている大国主命の神名を左脇に書し更にその左側に顕幽両界に三十三身に変化顕現して救済に当たらせ給う観世音菩薩を配し、中央の右脇には児童の諸霊を護りたまう地蔵大菩薩の仏名を書し、更にその左側にはクリスト(クスリ人 薬師)として顕幽両界に於て、悩める者を導き癒したまう阿弥陀如来の仏名を書し、それを〝本尊曼荼羅〟として各々その御名を呼び奉ってその神霊の御降臨を請い奉り、本尊両側の紫雲殿及び光明宮並びに宝蔵宮に祭祀せる諸々の霊魂たちを導き給わん事を祈ったのであった。
その祈りの瞬間、奇蹟的なことが起ったということを私は後で聞いたのである。当日は一点雲もなく晴れ渡っていたのであるが、その瞬間、実にその瞬間、突然、宝蔵神社の甍の上に白く連珠をなして輝く雨が、神社の真上だけに降り、それが終ると、光明燦然と日が射した。この奇瑞を見たのは当日大祭役員をしていた京都の斎藤寿美さん、西川さとさん、森定艶子さん及び西宮の長部真知さんなど数名の白鳩会の婦人と、工事現場にいた一人の職人などであって、それらの人たちはこの奇瑞を同時に見たと言うのだから、
単に幻覚だというわけには行かないのである。講習会中、演壇に咽喉をうるおす茶を搬ぶ仕事に奉仕していた和田節子さん(同志社大学一年生)は、その父君和田英雄氏の話によると、私が鎮座式を終って廊下に出て来ると、祭祀されていた無数の諸霊の姿が私の周辺にアリアリと見えたということである。このような純情な乙女には、時折そのような霊眼がひらくということがあるらしいのである。森定艶子さんなどは、その奇瑞の雨が降ったときは、拝殿の廊下越しにそれを見ていて、どこも一様に近所一帯に降っているのだと思っていたのに、あとで見ると神殿の周囲につんだ四角な石垣の内部だけに真四角にふったあとがあり、石垣の外の地面は全然ぬれていない奇瑞に面して身体がゾクゾクふるえ出したということである。

(『生長の家』誌昭和三十五年十一月号「明窓浄机」より)