精霊招魂神社

精霊招魂神社の建立
 大東亜戦争において戦病死された軍人軍属の中には、未だ生死のほども分らず、戦場の風雨に遺骨がさらされたまま、もしくは太平洋の藻屑となって海中ふかく放置されたままになっておられる英霊のあることを嘆かれた谷口雅春先生は、昭和三十七年の秋、これら精霊を招魂し聖経読誦の供養を行う神社を建立したいとの御意向を示された。

 この御意向をうけて「精霊招魂神社造営奉賛会」が設立され、全国有志によびかけが行われた。

   昭和三十八年一月十日に設立されたこの奉賛会へ、日ならずして全国各地より浄財八百余万円(一口百円以上)が集まり、いよいよ造営の運びとなり、昭和三十八年四月十三日に地鎮祭、ついで同年七月十三日に上棟式が行われた。


   さらに同年十月二十一日午前九時より、谷口雅春先生、輝子奥様の世界御巡錫御帰朝を記念して開催された宝蔵神社秋季大祭 ・ 詳密講習会の参加者約五千名が参列して盛大な落慶祭がとり行われたのである。






祝詞を奏上される大聖師谷口雅春先生



平和の先達に感謝する

無縁塔に捧げる平和の祈り

 昭和三十八年八月十五日未明、突然私は寝床を脱けだして唯一人聖経 『甘露の法雨』と 「大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞」 を持って、無縁塔に登って行きました。
夜霧は足をしっとりとぬらします。あたりはまだほの暗く、東の空はかすかに白み、山には人影一つなく、静寂そのものです。

 香華をくゆらし正座合掌瞑目---   時刻は正に午前五時十分---。
三千有余柱の無縁の英霊よ眠りませ・・・。

  唯一人霊前に額(ぬか)ずいて、神想観のできる喜びを天地万霊に感謝しつつ、この声全宇宙に響けと、音声朗々(おんじょうろうろう)と招神歌を唱え、全く神人合一の神想観に入った。終わって谷口雅春先生がお示し下さった 「大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞」 を、本当に全身全霊を持って読誦、英霊に感謝を捧げました。

  「キリストが一身を捧げて人類の身代わりとなりしがごとく、卿等(けいら)は一命を捧げて、大東亜諸民族およびアフリカ諸民族の魂の自覚の進歩のために貢献せるなり」と読んで来た時、雲流れる大空の果てに、或いは炎熱の南太平洋の怒涛に、或いは酷熱のジャングルに、散華された幾多の英霊達よ、さぞ辛かったろう、口惜しかったろうと涙がとめどなく流れてきました。その悲惨な最期を想起し、本当に心の底から慰めてやりたい気持ちで朗読を続けました。

 「讃うべきかな卿等の犠牲的精神よ 宇宙の大神 今卿等の功績を賞賛し 霊界において一層高き位に進められんとす」まで読んできた時には、万感胸に迫り、ワァッとばかり大声をあげて泣いてしまいました。ただ滂沱(ぼうだ)の涙が膝をぬらすばかり。

  深い深い世界平和の祈りの内に聖経『甘露の法雨』を誦げ、大調和(みすまる)の歌を終わって二拍手の後、目をあけてふと眼前を見ると、無縁塔が黄金色に輝き、後光が射しています。  不思議、と振返れば、はるかに東の山上から太陽が昇り始め、金色の光芒燦然(こうぼうさんぜん)と輝くその神々しさ、思わず合掌した時、パッと頭に閃くものがありました。
 昔、神武御東征の折、賊軍長髄彦(ながすねひこ)が押し寄せて皇軍が危くなった時、いずこからともなく金の鵄(とび)が飛び来たり、神武天皇の御弓の筈(はず)に止り金色燦然たる後光に賊軍は退散したいという神話から、軍人の最高栄誉である金鵄勲章(きんしくんしょう)が制定されたが、光は〝真理″であり、退散した賊は〝迷い″である。今こそ〝真理の御言葉″によって、今まで迷っていた三千有余の無縁の英霊は、高き霊界にのぼられて我等を守り給い、世界平和の礎となられた神啓であると拝しました。

  更に不思議なことは、下山しようとした六時二十分頃、急に雨が降り出し、やがて沛然(はいぜん)たる大雨となって身動きも出来ません。思えば三世の英霊達がこの谷口雅春先生の讃辞により、英霊に於いて懐かしい親子兄弟との再会を果たした随喜の涙でなくて何でありましょう。・・・

 今こそ全信徒一丸となって、世界平和の祈りと実践運動に徹し、世界平和の先達であり、人類光明化の尊い犠牲となった二百三十万の英霊に、谷口雅春先生の讃辞を捧げて、霊界より人類光明化運動に参加して戴き、全世界を愛の霊波で覆いつくそうではありませんか。
(「生長の家」誌昭和三十八年十一月号より)






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